夜明けは遠く
石造りの窓からのぞく夜空に白々とした月が輝いている。風は穏やかで音もなく、居城の周囲はひっそりと静まり返っていた。いい夜だった。戦争をするのに申し分ないほどの。そう思いながら、サタンは寝台にベルゼブフと共に寝そべっていた。
メギドラルにも太陽があり、すなわち日が昇り日が沈むサイクルが存在する。淡い光を帯びる大地に照らされ、昼と夜の違いはいくらかの光量の差でしか測れない上にメギドたちは生活サイクルの違いが個体ごとに大きい。そのため時の経過を一定で測る感覚などなかった。
サタンもその例に漏れず、時間どころか朝と夜の区別すらほとんどつけたことはない。戦争をしてる時としてない時、その間にやるべきこと。太陽のあるなしに関わらずすべき時にすべきことをするだけ。そして時が来れば思いっきり戦争を楽しむ。そうして生きてきた。
しかし今、サタンは生まれてから長く意識したことのなかった「夜」という存在を忌々しく感じていた。
サタンは隣で寝息を立てるベルゼブフを飽きずに眺めていた。瞼が降り、意識は閉じ、一定の呼気だけが聞こえる。時折眉を顰めて苦しい表情を作るベルゼブフの顔や身体を優しく撫でたり抱きしめたりして、少しでもその表情を和らげることを試みる。
夢を見ている時のベルゼブフはいつも苦しそうだ。苦痛の滲む表情を浮かべることもあれば、全身が強張り震えることもあった。自分の手の届かないところで苦しむ姿を見ているしかできない己をサタンはいつも歯痒く思う。
メギドはあまり睡眠を必要としない。サタンも生まれてこの方、睡眠を長く取るという体験をしたことがなかった。目を閉じて刹那、意識を飛ばす、それがサタンにとっての眠りであった。
だから初めてヴィータ体で眠るベルゼブフを見た時は何をしているのか理解ができなかったほどだ。
ヴィータ体を取って何度目かの時、あれはおそらく太陽が沈んでしばらく経っていたのだろう、ベルゼブフの居城を訪れると部屋で倒れている彼を発見した。名前を呼んでも返事がないことに焦り、慌ててその身体を抱え起こした。ヴィータ体の不具合かもしれない。どうにかしてメギド体へ戻さなければとわけのわからない思考だった。ひたすらに焦っていた。
そんなサタンの狼狽は露知らず、重たそうな瞼を上げるとベルゼブフはサタンを見て数回瞬きをした。次の瞬間、心底安心したような笑顔を見せた。サタンは一瞬呆気に取られ、頭を掠めた数々の文句も忘れてしまった。
「来ていたのかサタン」
ベルゼブフの声に喜色が滲んでいた。それを聞いたサタンは何やらすわりの悪さを感じ、思わずぶっきらぼうな声音で返す。
「来ちゃ悪かったか」
「いいや、嬉しい。起きぬけにオマエの顔を見られるとは僥倖だ」
「……起きぬけ?」
「ああ、ここのところ以前にも増して眠る頻度が増えた。ヴィータ体を長くとり続けることの弊害だな。これだけは勘弁してほしい。夢も見るし……」
ベルゼブフはサタンに預けていた身を起こすとまだ開ききらない目を擦りながら話す。
「さっきのあれは、眠ってたってことか?」
「そうだが、他にどう見えたんだ?」
「……ヴィータ体に不具合があったのか、と」
焦りで観察を怠り、冷静な判断力を欠いていたことは伏せておく。気恥ずかしかった。
「寝台に寝ていたからか? 仰々しく見えるがこの身体で地べたに横たわると中々痛いぞ。その点でいえばやはり眠るときは専用の道具を用いるべきだ」
ベルゼブフは体の下に敷かれた布地を撫でた。よく見ると石の台と草やら毛皮やら布やらを重ねたものの上にベルゼブフはいた。サタンはベルゼブフを倒れていたと思ったが横たわっていただけらしい。
「眠るためだけにわざわざこんなもん作ったのか?」
「メギド体の時より睡眠時間が長くなってな、やむを得ず、さ。サタンだって寝るときは多少なり心地のいい安全な場所を確保するだろう」
「……覚えがねぇな」
いわゆる睡眠状態に入ることは稀にあるがわざわざそのための場所を確保したり、タイミングを考慮したりはしたことがなかった。
ベルゼブフはふむ、と少し思案した表情を見せる。
「サタンのそれは本当に一瞬なのかもしれないな。瞬きの間に済むような。メギド同士とはいえ、別の生物だ。そういうものだろう」
その冷めた物言いはメギドとして当然のものだがサタンはなぜか釈然としないものを感じた。
「で、それが増えてるって?」
「そう。さっきも言ったがヴィータ体を長く取ることで影響を受けやすくなってるらしい。ヴィータは元々一定以上の睡眠が必要なんだが、私はそもそも模倣してるだけだし最初はそんなに眠ることもなかったんだが、ここのところ夜になると必ず眠るようになってしまった」
「やっぱその身体、不具合があるんじゃねぇのか?」
寝台に座るベルゼブフの頭から爪先までを検めるが、特に異常は見当たらない。もっとも、サタンにはヴィータ体の細かな違いはわからないので確証はなかったが。
「というよりヴィータ体により精確に近付いてるんだろう。この身体の変化も眠りに関しても私の意思でどうこうできるものではないらしいな。意図しない作用をもたらすのは困るのだが……」
そう言うベルゼブフの表情は言葉ほど困ってるようには見えない。むしろ新たな発見に困惑しつつ楽しみも見出してるような。サタンはあからさまにため息をつく。このメギドの酔狂に付き合い始めてまだいくらも経たないが、この様子では困ってるならヴィータ体になるのをやめろ、と諭してもまったく聞く耳を持たないか、なんらかの言い訳を述べ絶対にヴィータ体を取るのをやめないだろうと想像に難くない。
ならば諭すのは別角度からになる。
「意図しない作用ってのは?」
ふと目を伏せると今度は暗い顔を見せる。そのような表情を見るのはサタンとしては好ましくなかった。早急に困りごとの解決を図りたくなる。
「……ヴィータ体を精確に模倣するにつれ、感覚や生理的欲求、感情が多彩になるようだ」
「いまいち要領を得ないな。何が困る?」
「先程も言ったが、夜に睡眠を取る必要が出てきた。それも少なくない時間だ。わかるだろう? 戦争において圧倒的に不利だ」
眠らないメギドにとっては戦争に昼も夜もない。他者より肉体を休める時間が多いことはそれだけ隙ができるということだ。そこまでわかってるなら試すことも限られてくる。
「眠らないとどうなる?」
「試してみたがしばらくすると肉体の通常機能を損なう」
「……」
つくづく脆弱で、融通のきかない身体である。目を細め、呆れを隠さない表情のサタンを見て、言い訳のようにベルゼブフは述べる。
「そういう時はメギド体に戻るぞ? 可能な場所で。こういう居城を構えたのも一番はこの身体になる際の安全な拠点をと思ったからだ」
聞けば聞くほど不満点と改善点しかなかったが、今さらそれをこいつに言ったところで自分が納得して始めたことを容易く覆しはしないだろう。特に口を挟まず続きを促す。
「だがそれらも解決策としてはその場しのぎに過ぎない。もっと問題なのは夢なんだ」
「夢、か……。夢見の者が入り込むという世界だな?」
「詳しくはないがな。眠る時に見る幻覚、身体から離れた意識の世界、それが夢だそうだ。困ったことに夢を見る見ないは自分でコントロールできないことらしい」
「夢を見るのが問題?」
サタンにはあまりピンとこない話だ。睡眠時に見る幻覚など覚えがなく、意識だけが体験する世界など想像もできない。
だがベルゼブフの顔にさらなる翳が落ちてようやくそれが深刻な問題だと気付く。
片手で顔を覆い、眉根を寄せ、目を見開きながら暗い声を落とすベルゼブフの表情はそれがいかに苦痛かを物語っていた。
「夢を見る、ことだけは確かだ、以前は見たことすら忘れていたが、とある者に助言を受けて以来それだけは覚えていられる。
だが肝心の内容はいつも覚えていない、ただなにかひどく恐ろしいことだった、気がする」
「恐ろしい夢を見るのが嫌、ということか」
難題だなと顎に手を当てながら考える。
「呆れたか」
その声音にあからさまに不安が滲んでいる。ベルゼブフはへにゃりと眉を下げ情けない顔をしていた。
「オマエの頑固さに比べればどうということはない」
眉を顰めやや不服そうな表情を見せるベルゼブフに少し愉快になる。サタンから受ける評価が下がることを不安に思う素振りを見せながら、自身の意識しない性質への言及には不満そうなところが面白くて、しばしばサタンは意をずらした指摘をする。
さておき、根本的な解決をする気がないのならベルゼブフを悩ます問題をいかに緩和するかに注力するしかないだろう。
ヴィータ体を取ることをやめる気はない、眠らないことはできない、夢を見ることはコントロールできない。夢の内容の恐ろしさもあまり想像がつかなかった。戦争嫌いとはいえ歴戦の戦士であるベルゼブフの恐れるものとは?
サタンは自身に置き換えて考えてみた。
恐れるもの、か。
現メギドラルにおいて大罪同盟を凌ぐメギドはおらず、その同盟の中でもサタンと互角以上の実力はアスモデウスかベルゼブフか、いずれにせよ恐れる対象ではない。幻獣など言うに及ばず。では戦争相手のいなくなることが恐ろしいだろうか。これは幸いなことに個体として勝っていようが軍団としての力とは別問題である。サタンと戦争する軍団は血気盛んなものが多い。メギドの衰えることない闘争本能はこれからも戦争が耐えることのない未来をサタンに予感させる。
この世界に生まれ、己と世界のためにひたすら戦いに明け暮れる、大罪同盟としての役割を果たすこと、それらはサタンにとって同等の価値があり地続きである。
己の役目を果たせなくなることは恐怖だろうか?
それが訪れるのは死の瞬間に他ならず、而して死は誰しもに訪れるものである。その瞬間まで戦いに身を投じているのならそれはやはりサタンにとっては恐ろしいことではないだろう。
「ベル、オマエが恐ろしいと感じるものとはなんなんだ?」
自身に置き換えて考えても一向に答えはわからない。ならばベルゼブフ本人に聞くのが一番てっとり早い。
夢の内容を覚えていなくとも自身が恐れるものがわかるのならそれに関する内容だと想像するのは自然だ。覚醒状態でのそれに対する恐怖心を克服すれば夢自体を恐れる必要はないのではないか。合理的かつベルゼブフの目的を阻害しない解決法を提示しようとしたサタンの質問に対し、ベルゼブフはこれまでしなかった拒否の姿勢を見せた。
「言う必要があるか?」
「あ?」
その物言いはさすがに腹が立った。声を荒げるのを止められない。
「それを言うことがサタンにとって何か益のあることか?」
「俺のことは関係ねぇだろ。オマエの話なのに」
「……そうだ、サタンには関係のないことだ。私の問題なのだから……」
ベルゼブフは寝台の上に投げ出していた手足を抱えると顔をそこへ埋め、くぐもった暗い声で呟いた。
サタンはふぅとため息をつく。
一瞬怒りに飲まれそうになったが、ベルゼブフがここまで頑なな態度を取るのも珍しいことに気付くと、それを解きほぐしてやりたくなった。さほど気の長くないサタンにとってこのような対応は破格だ。
サタンのため息に反応してベルゼブフが腕の間からわずかに顔を上げた。先ほどより情けない顔をしている。というより悲しげな顔だ。そんな顔を見せるぐらいなら自分だけで抱え込まずこちらに明け渡せばいいものを。そうして初めに見せた安堵した笑顔をまた見せればいい。
「確かに俺には関係ねぇよ」
ベルゼブフの手足に力が入る。自身を抱きしめるようにぎゅっと体を縮こまらせる。強張った手の上からサタンは自身の掌を重ねた。
「けどオマエが困ってるなら解決を図りたい。オマエが恐れることがあるのなら、それから救いだしてやりたい。オマエがそうやって情けない面してるのを見るのは俺が嫌だ」
重ねた手の強張りがわずかに解ける。
「……そんなに情けない顔をしてたか?」
「ああ」
「オマエを不快にさせるほどに?」
「不快なんじゃねぇよ。ただオマエにはもっと明るい顔をしててほしいだけだ」
うまく伝えられないことがもどかしい。ベルゼブフは思案顔だった。
同じ身体構造を有し、同じ感覚を得て、同じ言葉を用いても、互いの思考を理解できるまでには程遠いのだとベルゼブフと接するほどに痛感する。
だからこそ同じ思いを共有できた時の喜びがいやますことも、知った。
「……心配してくれたのだな、サタン」
「……あぁ」
心配してると、そう言えば良かったのか。
「ありがとう」
今度こそサタンの好きな明るい笑顔を見せた。
「ん。そう、だからオマエの恐い夢の原因を俺がなんとかしてやるって話だよ」
照れから語気がぶっきらぼうになってしまうサタンには気付かず、ベルゼブフは気まずそうに笑って言葉を続けた。
「原因かはわからないが、確かに私にも恐れるものはある」
「なんだよ」
「……喪うこと」
「何を」
「サタン」
「なんだ?」
「……サタンだ。私はオマエを喪うことを恐れてる」
「俺が簡単に死ぬように見えるのか?」
侮られてるのかと思った。しかしどうもそうではないらしい。ベルゼブフはふるふると首を横に振って否定の意を示す。
「そうではない。サタンがさっきみたいに心配してくれることや、私のために忠告をしてくれること、そういう心遣いを与えられることに喜びを感じてるんだ。……だから、それがいつか消えてしまうことが恐ろしい」
サタンは何事か言いかけて、やがて口を閉じた。言うべきことがある気がするが、なんと言えばいいのかわからなかった。
ベルゼブフの恐れていることの真の意味がサタンには理解できない。どんな生物であれいずれ死にゆく定めであり、メギドであれば魂は彼の世界へと帰っていく。
それだけといえばそれだけで、だから自分以外の何かの生に囚われても意味はない。
サタンがベルゼブフへと心を砕くのは友人としてその目的を尊重してやりたい気持ちからだ。ヴィータ体を取ったのも気まぐれに過ぎない。不都合があればすぐに止めることもできるし、力づくでベルゼブフ自身を説得するつもりでもあった。
そう、だから、ベルゼブフの恐れは的外れもいいところと言える。
そのはずだった。
「馬鹿馬鹿しいと思うだろう?」
自嘲しながら尋ねるベルゼブフを見てると無性に腹が立った。ヴィータ体の表情は感情の豊かさを反映してか実に多彩だ。ベルゼブフは特に顕著にそれが表れる。ヴィータ体への適応がそうさせるのだろう。腹立たしいのはベルゼブフがたびたび見せる表情が自虐を含んでいることだ。
「……ベル」
寂しげな顔で笑うベルゼブフの頬へ手を伸ばす。
そうして思いっきり、つねった。
「いっ!? 痛い痛い! サタン!!」
ぐいぐいと頬を思いっきり引っ張るとつられて体が傾いていくのを無言で見つめる。だいぶ力を込めたせいでベルゼブフの目には涙が浮かんでいる。それを見てサタンはパッと手を離した。ベルゼブフはつねられた頬を摩りながら恨めしそうに見上げる。
「急になんなんだまったく……。怒ったのか? 確かにくだらないことを心配してるとは思うが……」
ブツブツとまた一人で勝手に納得して話を進めるベルゼブフに今度こそ言ってやることがある。
「俺はここにいるだろ」
うつむきがちだった視線の先をぱっとサタンへと戻す。何を言われたのかわからない、という顔だ。ベルゼブフの思考は本当によく顔に出る。
「オマエの恐れも、夢の出来事も、もし俺に関係あったとして、目の前にいる俺以上に確かなものではないだろう」
「それは、どういう意味だ……?」
サタンはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら懸命に言葉を探した。己の気持ちを伝える術を多く持たないことをこんなに悔やむ日がくるとは思わなかった。それでも言葉を紡ぐことを諦めない。
「だから、ここにいる俺だけ信じてろよってことだよ」
もしベルゼブフが自身の行い如何でサタンに嫌悪されたり呆れて離れられるのを危惧しているなら、それは今さらというものだ。そんな段階はとうに過ぎているとなぜわからないのだろう。ベルゼブフは賢いメギドだとサタンは思っているが、少し、いやだいぶ、思考回路がおかしいとも思っている。その理解不能さに面白味を見出してしまった己も今やおかしいのだろう。
「ベル、オマエはさっき馬鹿馬鹿しいかと聞いたな? ああ、馬鹿馬鹿しいな。俺がオマエを見放したり、嫌ったりするんならとっくの昔だとは思わないのか」
「っ、そんなに嫌われてたのか……」
すまない、こんなことをさせて……と悄然と言うベルゼブフに違う、そこじゃない、とまた髪を掻きむしりそうになる。言葉というのは厄介だ。けれどそれを用いなければやはり通じ合うことができない。
「そうじゃねぇ。オマエの言うように俺はオマエを心配してるし、悲しそうにしてるところなんて見たくないんだよ」
これは自ら言い出すにはあまりに気恥ずかしいことを思い切って告げる決意。
「オマエを大事に想う俺の気持ちを疑ってくれるな」
それがベルゼブフの求めるものと同じ種類であるかはわからない。だがサタンはベルゼブフから同じように思われなくともいいと思っている。自分を信じてくれるならそれでいい。
先ほどまで不安に瞳を揺らしていたベルゼブフは吃驚したような顔で一心にサタンを見つめている。その頬には薄らと赤みが差していて口元がむずむずとしている。突飛な発想と裏腹にやはり表情は素直で、そんなところを見ていて飽きないと、もっと見せてほしいとサタンは思ってしまうのだ。
嬉しいなら素直に喜んで笑え。
それを見ることがサタンの最大の喜びだ。
「だ、大事、なのか? 私が? サタンが私を……?」
おっかなびっくり単語を口にするベルゼブフを見て、全幅の信頼を得るのはまだ遠そうだなと察する。
「ぎゃ、逆では……? 失ってどうにかなってしまう私の方がサタンのことを大事に思ってるような……」
「あーもう、うるせぇうるせぇ。どっちがどうとかどうでもいいんだよ。ベル、まだ眠いか?」
「え? いや、もうとっくに覚めてしまっているが……」
「そっか。じゃあそっち詰めろ」
え? と訝しげなベルゼブフを意に介さず、サタンは寝台に乗り上げると隣に寝そべった。言葉で伝わらないなら行動で示す。欲しいものは実力行使。その方がやはり性に合う。差し当たって共に眠るという経験をしてみれば悩みの共有もしやすいだろう。起き抜けにサタンの顔を見られるのは僥倖だと笑ったベルゼブフの幸せそうな顔もまた見られるだろうし。これぞ一戦二議席。
「いっしょに寝るぞ」
言いながらその身体をひいて横たえさせる。体温がぐんと近付くが悪くない心地だ。眠るのに快適な環境を作るべきというベルゼブフの言は意外と的を射ているのかもしれない。
「サタンはあまり睡眠を取らないのだろう」
「そうだが、横になって寝る経験はしたことがない。案外やってみたら眠るかもしんねぇだろ」
ふふ、とおかしそうにベルゼブフが笑う。すぐ隣にいるからか、空気の揺れが直に伝わる。悪くない。
「ああ、いいな。オマエと眠るなら悪い夢は見ないかもしれない。起きたらすぐ隣にサタンがいると思えば、例え恐ろしい夢を見ても怖くない」
ゆるく目を細めるベルゼブフの呼吸がだんだんと穏やかになっていく。次第に目を閉じると呼吸が微かに聞こえる程度になった。睡眠状態に入ったのだろう。サタンはベルゼブフの方へ顔を向けたまま目を閉じる。眠気はやってこないが、己よりわずかに高いベルゼブフの体温を感じてその安らかな寝息を聞いているだけで満たされるようだった。
それから短くない時間が過ぎ、共寝をした回数ももはや数えるのに飽きるほどになったが、サタンは相変わらずベルゼブフに比べると睡眠を必要としなかった。夢もついぞ見たことがなかった。以前のベルゼブフの推測ではヴィータ体を精巧に模すほどに生理的欲求を増すとのことだったが、こと睡眠に関してはサタンにあまり当てはまらなかったようだ。
サタンのヴィータ体はベルゼブフのそれを模しているが、そうであるならばベルゼブフと同程度には精巧なはずだ。何せ夜毎の共寝に飽き足らず遂にはお互いの肌身に触れ、その内側に招いてもらうに至るまでサタンはベルゼブフの肉体を知っている。
にも関わらずいまだにサタンは隣で悪夢に魘されながら眠るベルゼブフを見ているしかできなかった。せめて悪夢から覚めたベルゼブフが安堵に満たされるためにそばにいてやるぐらいしかできない。
今のサタンにはベルゼブフがサタンを喪うことを恐れていた理由がよくわかる。
それは本質的に同じものではなくとも、自分の至らぬところで、自分の不甲斐なさのせいで、損なわれるものがあるのは恐怖に違いない。サタンにとってそれは紛れもなくベルゼブフであり、彼の見せる柔らかで幸福に満ち満ちた笑顔が失われることもその一つだった。
夢の世界はサタンにとって途方もなく遠い。夜明けがきてベルゼブフが目覚めるまでのこの時間は、長く生きてきたサタンにすら果てしなく感じられた。それでもそばにいたい。
(俺はここにいるから)
目覚めた瞬間にその温かな微笑みを見せてほしい。それさえあれば、サタンにとって何も恐れるものはないのだ。
2022.01.23
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