春の目覚め
日の傾きかけた平原を駆ける一つの影があった。周囲を圧倒するであろうその異形と威容を誇る姿を見るものは、しかしそこには存在していない。影が平原の遠くにひっそりと立ち並ぶ廃墟に気付く。行方を定めると幾許か先ほどよりも駆る速度を早める。
その影、サタンは目的の場所で待つ存在を思うと逸る気持ちを止められなかった。
ビルドバロック時代の遺物はメギドラルのそこかしこに点在するが、不毛の土地が多くメギドはおろか幻獣や獣の姿も稀であった。かつてヴィータ体を模したメギドたちがその身体で安全に過ごせるようにあえてそうした土地に建物を建てたのかもしれない。ヴィータの文化に傾倒したメギドたちが戦争や、幻獣の存在、そういったものを意識から排除するために静かな土地に建てたのかもしれない。いずれにせよサタンにとっては理由はどうでもよく、ただ会いたい存在と二人きりで過ごすのにこの上ない条件であればそれでよかった。
廃墟群には曲がりなりにも道が敷かれ、奥に行くほど小高い丘のような立地であった。はて、己の探している存在はどこにいるのやら。瓦礫になりかけている柱や壁を通り過ぎ、丘の頂上へ向かって探しに行くことにする。そこでサタンは自身のメギド体をヴィータ体へと変化させた。先を進むにはメギド体では大きすぎる。そして探す相手もヴィータ体を取っている。痕跡は同じヴィータ体の方が発見しやすいためだ。
そして何より、出会ったらすぐにでもその身体に触れられるようにするためだ。
***
裁定者を巻き込んでの先のケンカで、サタンとベルゼブフがヴィータ体を取る際の拠点としていた場所を二人で瓦礫の山と変えてしまった。幸い、と言うべきか後継の候補地は数多かった。メギドも幻獣もほとんど寄り付かず、二人きりで過ごせる場所。最低限この点をクリアしてさえいればサタンとしてはそう拘りはなかった。一方のベルゼブフは普段よりヴィータ体を取っているため領地から著しく遠い場所を選ぶのは難色を示した。
「前に使ってた場所はちょうど私たちの領地の中間地点ぐらいで使い勝手がよかったのだが」
「ベルに近いところを選んでいいぜ。俺はどこだって構わねぇよ。静かな場所ならな」
「アンフェアは好ましくない」
「俺が良いっつってんのに……」
「では今回はその言葉に甘えさせてもらおう」
「よし」
「だがどうあっても私の方が早く着いてしまうな」
「そりゃな」
「待ってるだけというのもつまらない」
「オマエな……」
たまにあるベルゼブフの身勝手な言い分である。呆れはすれど嫌な気持ちにはならないので困りものだ。ベルゼブフはわかりやすく眉を下げて憂える表情をサタンに向ける。
「それに、いないサタンのことを考えて待つのは寂しいものだよ」
「……クソっ、どうしたいんだ?」
ごく稀に見せる素直さに心掻き乱されるのももう数えきれないほどだ。可愛いことを言ってくれるな。悔しさに似た、それでいて悪くない心地にさせられる。ベルゼブフは機嫌良く頷きながら提案を述べる。
「ひとつ、遊びを思いついた。早く着いた方が拠点の中で隠れて待つ。後に着いた方が先に着いていた方を探すのはどうだ?」
「いや、それの何が遊びになるんだ? どうせ探すことになるだろ」
「普段はわかりやすいところで待っているが、あえて見つかりにくいところに隠れるのが面白いんじゃないか」
「見つけられなかったらどうすんだよ。なんのための待ち合わせだ」
「隠れる方は痕跡を残していこう。ちゃんと辿り着けるように。ヒントを漏らさず見つければ会えるはず」
自分の思いついたことを実行するときのベルゼブフというのは実に生き生きとする。サタンがヴィータ体を取ると言い出した時に自分のヴィータ体をあちこち指しながら説明を矢継ぎ早にしたことを思い出す。サタンには理解の及ばない気質だ。
「何のためにんな面倒なことを…」
「理由が必要かな?」
「……ねぇのか」
「いつ来るか、どこにいるのか、不明なものを求めるのは怖いだろう。でもヒントがあって辿り着く先があって、きっとそれを辿ってくれるだろうと期待で待つ時間は楽しいと思わないか?」
「わからん」
話の半分も理解できずサタンが即答する。
ベルゼブフは、ハハハとこれまた珍しく大声で笑った。今日はいつになく楽しそうである。
「うむ。きっとそうだろうと思った。試してみて楽しくなければ次からは普通に待とう。やる前から決めつけなくていい。そうだろう?」
「……まぁ、そうだな。いいぜ。その遊びに乗ってやる」
結論として、その遊びは二人の間で定番化した。
当初の予想通り概ね待ち合わせにくるのはベルゼブフの方が早いのでサタンは探す側になることが多い。最初は足跡をつけたり折った枝や拾った小石を撒いてあったり、わかりやすい痕跡をつけてくれていたが次第にヒントは複雑化していった。つけた足跡をもう一度踏んで後退り、行方を撹乱させたりするのは序の口だ。わざわざ倒木を運び、道を塞いだときもある。その先に隠れるわけでもなくその手前で待ち構えていたりすることも。派手な物音をさせるから何事かと思って現場へつけば、どこで揃えたのか幾つもの似た箱を並べその中に隠れたり。
戦争にも生きるのにも役立たない甚だしく馬鹿馬鹿しい遊びを全力で二人して楽しんでいた。
サタンが隠れて待つ側になることも稀にあった。その中で、なるほど、ベルの言っていた通りかもしれない、と思った。ただ待っているのは寂しいものだ。いつも行けばそこにいる存在がいないだけで、心にひどい空虚が生じる。だが隠れ場所を探し痕跡を残す最中はそれが埋まるのだ。ベルならこう考えるか、この痕跡をどう見るか、ちゃんと気付いてくれるか。いない相手をただ待つのではなく、相手のことを理解しようと努める。その努力が相手が自分の元へ辿り着いてくれた時に報われる。会えた喜びが何倍にもなる。互いに手を尽くす価値のある遊びだった。
それでもサタンはベルゼブフを探す方が好きだった。彼が自分のことを考えて、どうしたら気付くか、あるいは惑わされるか、迂回か直進か、こうやって自分の元へ辿り着いてほしい、というルートを敷かれてるのが嬉しかった。ベルゼブフの思い描いた通りの道筋を辿って会いに行けば、極上の笑顔でベルゼブフが出迎えて抱き締めさせてくれるから。
***
その日は太陽が頂点にくる頃合いを目安に待ち合わせをしていた。しかしサタンは出遅れたため、日も沈みかけの頃にようやく廃墟群へと到着した。相変わらず廃墟の中にわかりやすいのに惑わされるよう散りばめられた数々のヒントを辿り、ベルゼブフの元へ辿り着いたサタンはしかし笑顔で出迎えられることはなかった。
廃墟の一角にあるその建物は天井が崩れたのか大広間が中庭のように開けており、昼間であれば陽射しが心地よい場所だろう。今は建物の影になって視界も悪く外気もやや肌寒い。よく見ると端の方に長椅子が置かれていた。ベルゼブフはその背にもたれてじっとしていた。
「……ベル?」
声をかけたが返事はない。サタンは焦らずベルゼブフに近付くとその顔を覗き込んだ。目を閉じてすうすうと穏やかな寝息を立てている。ここのところ頻繁にあるという、うたた寝だった。サタンは共に過ごす時間の中でベルゼブフが睡眠状態に入るのをたびたび目撃していた。
それはゆるやかに二人の時間を侵食する。
ふと会話が途切れた時、寄り添い合いながらお互い思考の波に身を委ねる時間がたまにある。ベルゼブフはサタンと比べてその思考の波を揺蕩う時間が好きなようで、声をかけるまで思索に耽ることも昔からよくあった。ヴィータ体を取ってからもその気質に変わりはなく、飽きもせず考え事に長時間を費やす。その最中にしばしば意識を失うことがあった。初めこそ驚いたものの、ベルゼブフによればヴィータ体の欠点として付き合っていくしかない体質らしかった。
「前にサタンがヴィータ体のことを『なにもしないこと』に適していると評していたが、違う言い方をすると『なにもしないこと』が必要な身体でもある」
「つまり?」
「脳も肉体も働かせない時間が必要だ」
「睡眠か」
「そう。メギド体の時は思索中に意識を失うなんてあり得なかったから気付いたことだが、ヴィータ体の意識は深い思考に入る時に意識を手放すことがしばしばある」
「んん???」
「うたた寝というやつらしい」
「なんだそれ」
「おそらく意識が脳も肉体も休ませろと強制的にストップをかけるんだろう。だから意識を失ったようになる。眠るつもりじゃないのに眠りに強制的に入らされるんだ。欠点以外の何ものでもない」
「……よくあるのか」
「……まあ、嘘をついてもしょうがないからな。ここのところ頻繁になってきた」
「原因は」
「推測はできるが根拠に乏しい。現時点では妄想に近い」
「言ってみろよ」
「サタンと仲良くなったからかと」
「は?」
なぜそれがうたた寝の頻度を上げるのか。
ベルゼブフの推測によると、サタンと語らう時間が増えたことで喜ばしいことに新しい見地から物事を眺める視点が増えた。そのため思考の幅が広がったという。考え事に没頭する時間、サタンと寄り添うことで得る安心感、ほどよい体温。ヴィータ体はそれらを睡眠に入るための準備と捉えてしまう癖があるのだと。そういう推測だ。
サタンとしてはその妄想に近いらしい推測を聞いて、素直に喜びを感じた。安心、そんなものを与えることが己にできるとは思ったことがなかった。ベルゼブフが、サタンといると安心するのだという。それはきっと他の者には感じないはずだ。サタンだけに感じるそれは「特別」なのではないかと期待をする。
けれどその感情と睡眠が結びつくのはサタンとしては腑に落ちないところである。いただけない。二人でいることをもっと感じてほしい。二人でできることをしたい。意識を失われては、サタンは一人取り残されたも同然だ。
だからサタンはベルゼブフが寝ているのを感じると容赦なく起こす。とはいえこれまでは声をかけるか近付くときの気配かで意識を取り戻すことが多かった。今日のベルゼブフは眠りが深いらしい。至近距離で顔を覗き込んでもピクリとすらしない。ひとつため息をついて徐に隣へ座る。そういえばこうして寝ている時の表情をじっくり眺めたことはなかった。背もたれに肘をつきベルゼブフの横顔を見つめる。
今のベルゼブフの意識はどこにいるのだろう。
互いしかいない空間で自分以外に意識を取られていることの腹立たしさはベルゼブフにはわかるまい。興味を惹かれる物事への探究心が強いものだから、いつだって目の前にあるものもないものもなんだって糧にして思考に励む。それらを退けてサタンにだけ意識を向けさせたい。特別な共感性の話を聴いて、真っ先にそれを思った。時に理屈を越え、理性では御せない、何よりも優先される存在。ベルゼブフにとってのそれになれるなら、思考の異なる未知の世界の生物の姿だろうがなんだろうが取ってやろうではないか。
ヴィータ体が思っていたより不快ではなかったことは幸いだった。それどころかなるほどメギド体では得られなかったであろう悦びがある。サタンは眠るベルゼブフへそっと手を伸ばした。視界に手袋をしたままの自身の手が映る。音を立てずにするりとそれを外す。眠りにベルゼブフを取られている状況は気に食わない。だがひとつ別の欲求が湧いた。
呼吸に合わせて睫毛が落とす影が揺れるのを見て、それに指先で触れた。睫毛の感触とそれが震えるさまを堪能する。目を覆う瞼の感触がひどく柔く内側の眼球もろとも貫くのが容易なほどに薄いことを知っている。その薄い瞼の上からそっと眼球を撫でた。いま起きたのならその瞳に触れられるのに。ベルゼブフはまだ起きない。
通った鼻梁を撫で、頬へ手を滑らせた。両手でベルゼブフの顔を包むように撫でる。輪郭の鋭さからは想像できない頬の柔らかさを、撫でたり揉んだり摘んだりして堪能する。顎の形をなぞり首筋へと手をおろしていく。肌の感触はそこで終わる。ベルゼブフは頭部以外を衣服と呼ばれる布地や甲冑で覆っているので、サタンが肌の感触を知っている部分は顔だけになる。
最後に唇に触れるのはそこが一番快い感触をもたらすからだった。サタンは親指で下唇をふにふにとなぞった。柔らかで弾力があり温かい。少し押すと小さな白い歯が覗くのが可愛い。歯を割って口の中に指を入れようとしたらベルゼブフに怒られたことがある。噛みそうになって危ないと言われた。それ以外は大人しくされるがままだったのは、存外ベルゼブフもサタンに顔中あちこち触れられるのを快いと思っていた証だとサタンは思っている。
ベルゼブフに何度触れても何度反芻してもこの行為に飽きがくることはないなとサタンは今日も重ねて思った。でもただ、飽きないけれど、もっと、と思うことはあるのだ。
危ないと怒られたけれど、その口の中がどうなってるのか知りたいと思う。ベルゼブフはサタンより少しばかり頭をよく使うからか口も達者だ。議論で言い負かされたり言いくるめられたりすることもしょっちゅうだ。ヴィータ体の発声器官である口とその舌。言葉巧みなもののことを舌が回るなどと表現するらしいが、サタンとベルゼブフでその器官に違いがあるからなのだろうか。
例えば衣服に覆われたその下の肌もサタンとは何か違いがあるのだろうか。色は? 体温は? 肉付きは? ベルゼブフは偶にサタンの胸元に触れて、『ヴィータ体でもオマエの身体は力強くて生命力に溢れてるな』と感嘆している。自身の身体との比較で言っているのだろうか。サタンとベルゼブフは同じヴィータの男性型でもやはり少し違うのだ。違いを知って、それを取り除けば共感性を得られるだろうか。
などと理屈をそれっぽく並べてみてサタンは自身を笑った。
理由はいらないとベルも言っていた、ただ寄り添う、そういうものだと。その感情と感覚に従って触れることになんの躊躇いがいる。
ただ触れたいのだ。ベルゼブフの肌で知らないところがあるなら触れて知りたい。穏やかにこちらを諭すその声が発せられる奥底を覗き込みたい。サタンを翻弄する言葉を繰り出すその舌がどう動くのか暴きたい。
サタンはベルゼブフの襟元の布地をゆるめるとその中にそっと手を差し入れた。これまでそのような行為をしようと思ったことはなかった。サタンが顔中を撫でるとベルゼブフは心地よさそうに目を細めて柔らかく笑う、その顔が見られれば満足だった。どうして今は笑ってくれない? わかってる。眠ってるからだ。その充足が得られない今、隠れていた欲求が顔を覗かせた。
首に手のひらをあてると肌の下の血管が脈打つ感触が心地よく響く。血液が絶え間なく流れる場所。意識はなくともベルゼブフがここに存在して生きていることの証だ。血管の流れを辿りするすると手のひらを下ろしていく。滑らかで温かい肌の感触が快さと楽しさをもたらしてくれる。布地に包まれているからかいくらか顔より体温が高く感じられて新しい発見に心が躍る。今度ベルにも俺の衣服の中を触らせてみよう、思わぬ温かさに驚きと高揚の表情を見せてくれるだろう、この悪戯は思わぬ知見をサタンにもたらした。
肌を撫でて鎖骨を丹念になぞり感触の違いを存分に味わう。反対の手で自分の同じ部位に触れてみて差異を確かめてみたりもした。しかしベルゼブフの肌に触れている手のひらの方が圧倒的に気持ちいい、その感覚に従い両手でその肌に触れ始めた。いまやベルゼブフの衣服は前がすっかりはだけてサタンと同じくらいに露出していた。
サタンよりやや肉付きが薄い胸部を撫でてみる。肉もあるが骨の感触が近い。どういう意図で体格を細身にしているのか聞いたことはないが、この身体もいくらか自在に変化させられるとはいえ、食事とやらを摂らないと衰えていく欠点がある。ベルゼブフは長いことヴィータ体を取っている割に食事に対して興味が薄いらしかった。サタンと初めて食事をした時に摂取した量に明らかに差があったのでその辺りが関係するかもしれない。睡眠のことといい、ヴィータ体を推奨している割には自身の体質への危機感が薄いように思えて、どうして無駄なことは考えるのにそこに気が回らないのかサタンには不思議でならなかった。
胸部は薄いながら他の部位よりはいくらか肉があるぶん撫でる以外にできることがあって楽しい。ふにゅふにゅと揉んでみると頬よりかいくらか固い感触だろうか。嫌いではない。ベルゼブフのもつ部位で悪い箇所など皆無なので意味のない評価である。
不意に他とは違う感触に指先が触れた。
肌より少し色の濃い突起物。乳首というやつだ。ヴィータ体の説明をされた時に役割がよくわからないのだとベルゼブフは言っていた。しかしあるからにはこの小さな尖りにも役目があるのだろう。指の腹で軽く押しつぶしてみると肌に埋まるが離すとまた出てくる。なんだか面白くて何度も同じことをしていると、次第に芯が通い始めたようにぷくりとその尖りが立ち上がり主張する。いよいよ興味深くなって親指と人差指で軽くつまんでみる。最初と感触が違うのが不思議だったし、色味も鮮やかさを増したようにサタンの目には見え、そしてそれがひどく蠱惑的に写った。
気付くとそれに口をつけていた。考えての行動ではない、衝動的なものだった。
唇で乳首を挟み感触を確かめる。弾力があって手で触れるのとは全然違う感触がした。鼻を近付けたからかベルゼブフの肌の匂いが濃厚に感じられる。どちらもサタンに大きな衝撃をもたらした。
手のひらで触れるより口で触れるほうが気持ちいい。
腹の奥底から熱が生じる。情動のままに再び口をつけベルゼブフの肌を唇で感じたり、舌で舐めたり、歯で噛んだりした。ベルゼブフの左胸はサタンの唾液で塗れ、噛み跡が薄らと付いている。それを見ると下半身が妙な衝動を訴えかけてくる心地がした。その衝動のままに反対の胸にも唇で触れようとした時、
「んぅっ……」
それまで何の反応もしなかったベルゼブフがむずがるような声を上げた。サタンは口を離すとベルゼブフが起きたのかと期待に満ちた表情でその顔を見上げる。
「……」
ベルゼブフは僅かに眉を潜めた様子だったがそれでも静かな呼吸を繰り返している。
期待に反してベルゼブフはまだ覚醒しないようだった。これだけのことをされていて無反応でいられるのは危機管理としてどうなっているのだろう。サタンは自分のしていることは棚に上げて、ベルゼブフに一言物申してやりたい気分だった。それに新たに発見した触れ合い方をいっしょに実践してほしい。この得体の知れない情動の正体をいっしょに体感していっしょに考えてほしい。そのための二人のヴィータ体ではないのか。特別な共感性ではないのか。
頭の片隅にこれはベルの望まないことかもしれない、と過ぎるのをサタンは意図的に無視した。
起きないならば、とこの新たな触れ方をサタンは自分だけで続けてみることにした。ベルゼブフの前髪をかきあげ綺麗な形の額をあらわにする。そこにそっと唇を押し当てた。少しだけ歯を立ててみると骨の感触が伝わる。薄い皮膚、その下の無数の微細な血管、骨、ヴィータ体の貧弱な顎の力でも忽ちに噛み砕けてしまいそうなほどにやわで、そんな部位を無防備に明け渡されてるこの瞬間に、サタンは知らなかった昂揚を覚えた。
次いで瞼に口付けた。サタンは唇と舌を使って瞼をたどりながらそれに覆われた目玉の形を想像する。サタンが口を開けて噛み付いたらすっかり丸呑みできそうなその形。ベルゼブフの綺麗な色をした瞳が口の中に転がるのは、どんな心地だろう、どんな味がするのだろう。実際にそのような行為をする気はまるでないが、夢想の中の自分はそれを悦びと捉えている。ベルゼブフを傷付けたいわけではない。ただ凶暴な衝動が生まれているのを感じる。納めどころのない感情は果たしてベルの望んだものだろうか。その答えは目の前の彼しか導けない。
腹の奥底でくつくつと煮え始める情動を抱えながらもサタンは顔中を探ることをやめない。やめられなかった。鼻の頭に僅か齧り付き、柔らかい頬に口付けて、舐めて、噛んで、顎へ降りる。いつも手で触れる時の順番だった。はだけた首元からサタンより少しばかり目立つ喉仏を発見し、そこへも口付けた。首筋へも。舌で丹念に舐め回した後、思い付いて歯を立ててみた。力をこめてガブリと噛み付く。
「うっ……」
びくりとベルゼブフの身体が震えた。やっと起きたか? サタンは顔をあげてガッカリした。ベルゼブフは先ほどより顔を顰めているがまだ目覚めないようだ。いっそ寝たふりだと言われた方が納得する。
最後の仕上げだとばかりにサタンはいつもと同じ場所にいつもとは違う方法で触れてみる。
ベルゼブフの唇に自身のそれを重ねた。
その瞬間の感情をなんと言おう。
指で触れた時にも感じた温かさ、柔らかさ、弾力、それらがもっとダイレクトに感情に訴えかける。脳髄が痺れる。魂をも揺さぶる衝撃。
サタンは口を開いてベルゼブフの唇ごと食べるかのように覆った。あむあむと唇で唇を食む。舌を出してベルゼブフの唇を舐め辿る。もっと、もっと触れたい。薄く開いた口の隙間から舌を差し入れた。ツルツルとして固い感触、ベルゼブフのヴィータ体の小さな歯。これに噛まれたとてそう大きな傷を負うとも思えない。今までベルに言われたからと触れなかったことが悔やまれる。上下の歯の隙間から舌を侵入させ、奥のベルゼブフの舌を捉える。舐めて、吸って、ほどく。溢れる唾液を吸うとじゅっ、じゅると音がしてその音すら気持ちがいい。上顎、頬の内側、口内の肉の感触を存分に味わう。気付くと夢中で口の中を弄っていた。
「んっ、ふっ、っ、……はぁ、は…? サタン……?」
酸欠気味になりながらもベルゼブフの口内を弄り回すのに必死で気付くのに遅れた。ベルゼブフが呼吸を乱しながら覚醒していた。こちらを見てぼんやりしているその目には水の膜が張っているようだった。
「……起きたか、ベル」
名残惜しさを感じながらサタンはベルゼブフの口から己の口を離す。糸を引くような唾液が自身の離れ難さを象徴しているようだ。
ベルゼブフは額に手を当てて顔を伏せると消沈した声でサタンに訊ねる。
「……もしやまた意識を失っていたか?」
「ああ、珍しく近づいても声を掛けても起きなかったぜ」
「すまない、今度はもっと強く衝撃を与えて起こしてくれても……いい、が……?」
「どうした?」
悪戯っぽい聞き方だった。ベルゼブフはそれには気付かずただ疑問符を浮かべる。
「……? なぜ服が脱げているんだ……?」
半覚醒状態では自身の状態にまで気が回らなかっただろうベルゼブフがようやく今の状況を確認するまでに意識が回復したらしい。サタンは待ち兼ねていたとばかりに答える。
「俺が脱がした」
いっそ誇らしげな口調にすら感じられた。ベルゼブフには戸惑いにしかならない。
「ええと…? 何のために……?」
なぜか恐る恐る訊ねるベルゼブフにもっといつもみたいに饒舌に返してこい、と普段とは真逆のことを望む。
「オマエの肌に触れたかったから」
「いつも触ってるだろう?」
「顔だけでも良かったが、機会が与えられて暇だったから他の部位も試してみた。思いのほかいいものだったぜ」
悪びれないサタンの様子にベルゼブフが頭を抱える。割と本気で困っているらしく、これまた珍しい光景なのでサタンは愉快になってきた。
「……せめて起きてる時にしてくれないか」
「しても良かったのか?」
「ちゃんと許可を得てくれるのなら」
「許してくれるか?」
「……」
「ベル」
「さっきの…」
「ん?」
「さっきの口で口に触れるのは、どうしてしようと思ったんだ……?」
サタンは寝ている間に自分がベルゼブフにしたことを掻い摘んで説明した。その行為が自身の心境にどのような変化をもたらしたかも包み隠さず。ベルゼブフは神妙な顔で聞き入っている。時折何か合点のいった顔をして頷いたりしながら珍しく口を挟むことなく聞き続けた。
「……サタンは私の提案を受け入れてくれた。ならば私もサタンの提案を受け入れるのがフェアだろう」
待ち合わせの際の遊びのことだろう。そんなに重く受け止めてくれなくていいのに。サタンは嫌なら嫌と言う。
「そういうつもりで言ったわけじゃねーし。オマエの嫌がることを押し通したいなんて思わねぇよ」
意識のないベルゼブフに好き勝手に触れておいてよく言う、と自分でも思うが強く出られないのは向こうの方なので黙っておく。ベルゼブフは眉を下げ困り顔で苦笑した。
「今のは私の言い方がズルかったな。私もサタンに触れられるのは嫌じゃないんだ。というよりオマエが気持ちいいと言ってくれることを好んですらいる。だから、なるべくそれを目の前で享受していたいと思う」
「またまだるっこしい言い方しやがる」
サタンが目を細める。ベルゼブフはいつもの調子を取り戻して涼しげに笑った。
「でも伝わっただろう?」
「俺はベルの素肌に触れたい。唇に触れたい。その内側にも触れたい。その許可をくれるんだろ」
「うん」
「オマエもちゃんと素直に言え」
「……サタンが気持ちいいと思うことを私もしてみたい。それを見せてほしい」
少々照れまじりの言い方だったが頬を染めた笑顔が可愛かったので、サタンは許可ももらったしとベルゼブフに口付け、存分にその唇を味わうこととした。
***
サタンとベルゼブフの逢瀬に、隠れ遊びと追加で互いの身体の至るところへ触れてもいいという決まり事ができた。
初めて覚醒状態で素肌を撫でられたベルゼブフは「どうしてこんなことをされて起きなかったんだ……?」と怪訝な顔をしていたがサタンの方こそ知りたかった。サタンはベルゼブフを撫で回したり舐め回したり噛んだりとやりたい放題できて楽しいし気持ちよかったが、ベルゼブフの方はその手の感覚が鈍いらしかった。脇から腰にかけてを撫でると多少他よりくすぐったい、といったところだ。
ならばとベルゼブフの方からも触れさせてみたりした。はだけた胸元から衣服の中へ手を入れさせてやるとサタンの予想した通り、驚きと新しい発見に目を輝かせる。
「おお…! 温かい! ……いやどちらかというと外気に触れたままの肌が冷たいのでは? ちゃんと前を閉めた方がよくないか?」
「いいんだよ。寒くねーんだし」
ふーむ? と首を傾げつつ納得したようなしないような思案顔のベルゼブフである。
体中あちこち触れ合うようになったが、唇同士の触れ合いが一番互いの好むところであった。なぜかベルゼブフの方は素直に認めたがらなかったが。唇を触れ合わせ、口内にサタンの舌を招き入れかき回されるとベルゼブフはたちまち脱力してしまう。体ごと預けられてるのはサタンには嬉しかったがベルゼブフには違うらしかった。思考も覚束なくなるし、目の前のサタンのことで頭がいっぱいになってしまうのは困る、と零された時にはさてどうしてくれようかと思ったものだ。そんなのはサタンにとって願ったり叶ったりな状態でしかない。そうしてサタンだけで満たされるベルゼブフをずっと見てみたかったのだから。
やがて二人の触れ合いはサタンが得体の知れない情動を覚えた下半身へも至った。そこからは転がるようにして性器への触れ合いにも発展した。
どちらも何も言わなかったがこれが恐らく性行為へ繋がることは察していた。けれどその頃にはベルゼブフの方にこれが不必要だという感覚がなくなっていた。
それからいくらか月日が過ぎた。
廃墟ばかりが立ち並ぶビルドバロックの遺物にもかろうじて雨風が凌げ、外部からの視界を防げる建物もある。尤も、周囲に存在する生命も少ないので後者はあまり重要な点ではない。その建物の一室でサタンとベルゼブフは裸身を寄せ合って寝そべっていた。月明かりで照らされた互いの身体には、片や背中や腕に爪でつけられた引っ掻き傷、片や夥しい数の噛み跡と鬱血痕と、見るものがいれば尋常ではない有様に慄いたであろう。
しかしそこには二人だけしか存在せず、そして互いのその様相ももはや見慣れたものとなっていた。
「ベル、起きろ。大丈夫か」
「……っ、サタン…また、か?」
「おう。また意識を失ってたみたいだな」
「すまない……」
「謝んな。近頃はこれって俺のせいなんじゃねぇかって思うこともあるしな……」
「なぜだ?」
「オマエに負担を強いてるのはどう考えても俺だろう」
「それで簡単に気を失うほどやわなつもりはない」
言葉こそ挑発的だがその声音はサタンを気遣うものだった。けれどそれで納得できるほどサタンも気楽ではない。ベルゼブフ自身のことならなおさら。その不信を感じ取ったかさらに続ける。
「前にも言っただろう。サタンといると安心すると。オマエの体温に包まれて、内側でもオマエを感じて、これほど満たされることなど他にない。安心と幸福を感じて眠りにつく。ヴィータ体での喜びのひとつだろうと、最近は思うよ」
目を閉じて静かに語るベルゼブフがどこか遠くに感じられて不安になる。思わずその頬に手を伸ばした。
「……本当か?」
目が合うと微笑まれた。サタンが動揺しているのを察してかどうか、ベルゼブフがこちらへ同じように手を伸ばして触れてくる。
「嘘をついてもしょうがないだろう。サタンといると安心する。楽しいし。嬉しい。気持ちいい。幸福だ。心からそう思うよ」
それでも納得できないのかサタンはじっと睨み付けるようにベルゼブフを見る。睨まれても彼は朗らかな笑みを絶やさない。それを見てようやく体の力を抜くとベルゼブフを抱き寄せた。サタンの腕の中に囲われたことでベルゼブフが再び微睡み始めるのを穏やかな顔で見つめる。
「眠ってもいいぜ」
少なくともサタンのそばを、腕の中を安心すると言うベルゼブフの言葉は嘘ではないと知っている。
「……うん。ありがとう」
おやすみ。眠る時に贈るヴィータの言葉だ。サタンの腕の中で安心してその身体も意識も休めてほしい。
満たされる。幸福だ。その感情をベルゼブフへ与えてるのが自分であるなら、この先も手を伸ばし続ければいい。
そばにいて、触れ合って、この腕の中へ導こう。たった一人のサタンの「特別」へ。オマエのために穏やかな休息と、幸福な目覚めを約束しよう。
それは春の陽射しにも似た、サタンの愛情である。
2022.03.08
back