明日の命を紡ぐもの
ふと自分を呼ぶ彼の声を聞いた気がした。
ベルゼブフは向き合っていた論文から目を上げると鞄の中から携帯を取り出した。通知画面には今しがたの幻聴の主の名とともに食事へ誘うメッセージが表示されていた。そこで初めて日付と時刻が己の認識していた感覚からするといくらかのズレを生じていたことに気付き、これはまたやってしまったなと苦笑いをした。
『飯食ってんのか?』
『今日は帰れそうか?』
『ちゃんと寝ろよ』
『明日そっち行く』
『今から飯行くぞ』
一日一言の簡潔なメッセージだけだが彼から心配されてることは十分に伝わり、温かな感動が胸に込み上げる。それがおそらく五日前から続いており昨日と今日と少しずつ強制的な内容になっていくのがおかしかった。返事をしないベルゼブフに焦れたというよりはこれも慣れの表れである。最後のメッセージは十五分ほど前であったので彼の職場からならあと三十分ほどで到着するだろう。顔でも洗って待とうと、ベルゼブフは自身の研究室を後にした。
廊下に出ると窓から覗く夕日の眩しさが目に痛かった。日の出ている時間に外に出たのも何日ぶりだろうか。彼が聞けば呆れればいいか怒ればいいかわからない微妙な表情をされそうだ。それでも一番に滲むのは自分を心配する表情なのだろうと思うとベルゼブフは申し訳ないような、妙に心騒ぐような、なんともくすぐったい気持ちにいつもなる。
かねてから詰めていた研究成果がようやく形になりそうで、ベルゼブフはこのところ研究室に缶詰状態だった。論文の執筆期間は自室から時間を知らせる一切の機器を排除しているので、携帯に電源が入っていたこともそれに気付けたことも奇跡的である。もっともそれを承知している相手なので例えメッセージに気付かずとも強制連行するために直接こちらへ向かっているのだが。律儀に一言くれるところは彼の美点でありベルゼブフにとっても好ましく思う理由のひとつであった。
顔を洗うついでにシャワーも浴びて着替えも済ませて部屋へ戻ると、予想より早く到着した彼の姿がそこにあった。
「早かったなサタン」
「よう。相変わらず独房みてぇな部屋だな」
壁という壁と唯一の窓も本棚で完全に塞がれたベルゼブフの執筆部屋をサタンはよくそう言って揶揄する。床から天井までピッタリはまった本棚が圧迫感を増すこの空間が彼は苦手なようだ。
「狭いところの方が落ち着くし、考え事に集中できる」
「逃げ道ぐらい確保しとけ。本棚が倒れでもしたらこの部屋から出られねぇぞ」
窓際の本棚を眺めながらサタンが所感を述べた。デスク周りはかろうじて空間を確保しているのでベルゼブフ自身が下敷きになることはないだろうが確かに退路は絶たれる。この部屋を訪れる誰しもに指摘される要項ではあるが、差し当たって本棚をどける余裕がないので後回しにしている。
「考えておこう」
「オマエが絶対やらない時の言い方なんだよそれは」
小言を並べながらベルゼブフへ手を伸ばして頬を撫でる。むにむにと揉んだかと思えば次々と肩、腕、腹、腰、と手を下ろして肉の感触を確かめていく。
「……何日籠ってんだ?」
想定内の質問に、はてどうだったか?とベルゼブフはわざとらしくとぼけた顔をしてみせた。
「三日ぐらいだ。まだ二回しか太陽を見ていない」
「馬鹿言うな馬鹿。五日は帰ってきてねぇだろ。鉄板ネタみたいに使うんじゃねぇよ。さすがにわかってて言ってるだろ」
サタンは苦笑しながら指摘するが言い方に甘さが滲んでいる。ベルゼブフが馬鹿みたいな言い訳をするのが気に入りなのだ。
以前に研究室に籠りきりになったときに、寝て起きたらまだ太陽が沈んでなかったので日にちを数え間違えたというベルゼブフに、んなわけあるかばーかと大爆笑したサタンを見て以来この言い訳を多用するようになったベルゼブフである。
「冗談を言うぐらいだ。今回はそんなに根を詰めてるわけじゃなさそうだな」
「サタンからのメッセージに気付く程度にはな」
「ああ。珍しく既読がついたから驚いた。電池切れてなかったのか」
「そういえばこの間誰かが充電してくれていた気がするな」
「どうせアレだろ、オマエの助手を気取ってる学生」
「ガギゾンのことか?」
「それ」
助手というよりほぼ世話係みたいなものだとサタンは思っているが、本人の前では言わないでおく。ベルゼブフの所属する研究室の学生らしく、彼の研究支援は元より生活支援をよくしてくれている印象の方が強い。直接会話をしたことはないが、サタンの目の届かないところで何をしでかすかわからないベルゼブフを程よく制してくれるので心の中で感謝をしている。
「そいつ、飯は持ってきてくれなかったのか」
「む。そういえば冷蔵庫に何か入れていたな。学生のおやつか何かかと」
隣の部屋にある共用の冷蔵庫を開けると中にはベルゼブフへの宛名が書かれた袋が入っていた。中身は補助栄養食やらゼリーやらドリンク剤やらだ。食事を摂らないことなどお見通しで、せめてもの支援だったのだろう。心遣いに感謝と罪悪感が芽生える。
「健気な助手だな」
笑い含みにサタンが言う。
「嫌味だな」
「こいつの気持ちがわかるからな。嫌味のひとつも言いたくなる。まあこいつ自身は報われようと思ってやってるわけじゃねーんだろうけどな」
サタンの言わんとするところを図りかねてベルゼブフは首を傾げた。
「ベルが何かに没頭してるのを見るのは好きだ。けどよ、自分のことをおざなりにするオマエには腹が立つこともある」
「おざなりにしているつもりはない」
「オマエがそうでも周りからはな。何かにのめり込むその姿勢は尊敬に値するが、身体のことを考えないのはベルを大事にしてる俺らを蔑ろにしてるも同然だと思わねぇか」
「普段はちゃんとしている」
知ってるよと溜め息混じりに言うサタンの横顔は呆れと諦念が浮かんでいる。ベルゼブフのことで頭を痛めるサタンを見て心苦しく思わないわけがない。心配してくれるのもとても嬉しい。けれど誰に何をどれだけ言われてもベルゼブフは己の探究心と研究意欲を満たす題材に出会うとその世界に没頭することをやめられない。周囲の人々には、特に長い密な付き合いのサタンには申し訳ないと、少しだけ思っている。
サタンは立ち上がってベルゼブフの手を取り、同じように立ち上がらせる。
「今はちゃんとできてないやつのために、今日は夕飯を奢ってやる」
「ありがとう。いつも助かっている」
いつからか申し訳ないと思うよりも、当たり前のようにベルゼブフの手を引いて、まるで切り取られたような独りの世界から連れ出そうとしてくれるサタンに安堵を覚えるようになった。どこへ行こうとこの手が引き戻してくれる。オマエの帰る場所はここだ、とその力強さと温かさが教えてくれる。今は与え続けられるその安堵感に身を預けていたい。
「で、何を奢ってくれるんだ?」
「肉」
またか? と口をついて出そうになったが慌てて噤む。不満があるわけではない。毎回行くのでよほどなのだろうという感想に留める。
「好きだな本当に」
「まぁな」
サタンの連れて行く焼肉屋は大抵個室でメニュー表も出て来ないのでベルゼブフはどういったメニューがあって値段がどうなってるか一切知らない。知らないままでいた方がいいのだろうと詮索はしない。サタンの気遣いを享受していた方が互いにとっていいことを学んでいた。
「これ焼けてる」
そうはいっても運ばれた肉や野菜をせっせと焼いてはベルゼブフの皿へ甲斐甲斐しく乗せていくその様には一言二言物申したくなる。
「……私にばかり食べさせないでサタンも食べろ」
「食ってる」
「好きなんだろう。ちゃんと楽しめ」
「オマエに食わせる方が楽しい」
「難解な趣味だな」
「ほっとけ。オマエが食の好みを言わないから肉ばっかり食べさせられるはめになる」
「……そうだったか?」
サタンと食べたものや味については記憶にしっかり残っているのにそのような質問を受けた記憶は頭からすっかり抜けている。たぶんまだ頭が研究モードの時にでも聞かれていたのだろう。
「何度かオマエに何が食べたいか聞いたが、いつだって『サタンの食べたいもので』って言うからな。もう聞かなくなった」
「それでいつも肉だったのか……」
「嫌いだったか?」
「いや、好きだよ」
「じゃあいいだろ。そもそも肉が嫌いな奴はいない」
「さすがに過言だよそれは」
ほどよく焼けたロースをベルゼブフの皿に乗せながらサタンが質問する。
「ベル、今は何か食いたいもんはあるか?」
「次はハラミがいいな」
「そっちじゃない。いや、それも頼むが。オマエの好きな食べ物を聞いてるんだよ」
タレのついた肉をご飯にのせたまま、ベルゼブフはしばし考え込んだ。好きな食べ物のことでそんなに悩むものだろうかとサタンなどは思う。
「うーん………………お粥」
「論外だ」
悩んだ末の選択肢として出してきたそれをサタンはすげなく両断する。まあそうなるだろうと半ば予想された反応にベルゼブフは苦笑しつつ弱く反論する。
「消化にいいんだ。中華粥とかは朝食にちょうどいい」
「もっと栄養とかあるもんにしろ」
他か、と肉をもぐもぐ頬張りながら真面目な顔で思案するベルゼブフを正面でこれまた真面目に見守るサタン。ここまで来たら意地でもベルゼブフの好きな食べ物を聞き出して、次はそこに連れて行ってやると固い決意をしていた。
「パンケーキ、とか」
「……珍しいもんがきたな」
「サタンが焼いてくれたやつ」
「店じゃねぇのかよ。しかも焦がしたやつだろそれ」
サタンが眉を顰める。まだ学生の頃に一回だけ挑戦して以来ベルゼブフに菓子類は作っていない。
「二人で食べに行った夜食のラーメン」
「課題終わった後よく行ったやつか? うまいよなあそこ」
ベルゼブフが嬉しそうに微笑んで頷く。
「また行きたいな」
「わかった。今度行こうぜ」
「あと、サタンの握ったおにぎりもまた食べたい」
「オマエちまちま食うから時間かかるんだよな」
「サタンの握るのは大きくて量が多いんだ」
「今度それを弁当に持たせてやるか。絶対食べ忘れないだろ」
「それは食べ損ねられないな」
そこではたとサタンは気付く。ベルゼブフの好物がサタンの作ったものや彼といっしょに食べたものばかりで構成されていることに。
「……もしかして最初に悩んでたのって、選び切れなくてか」
ベルゼブフは悪戯が成功した子どものような顔で笑っている。
「サタンが作ってくれたものもサタンと食べたものも、私にとっては全部好きなものだからな。ひとつひとつ挙げていてはキリがない」
これも、と皿に乗せられた肉たちをさしてベルゼブフは穏やかな表情で歌うように述べる。
「全部好きなものたちだ。食事が美味しいのも楽しいのもサタンがいるおかげだと思うとよりいっそう好ましい」
「俺が? 肉が?」
「言わずともわかるだろう」
ひとしきり食事を楽しんだところでデザートのアイスが運ばれてきた。爽やかな柑橘類の酸味を楽しみながらベルゼブフは思いを馳せた。
もしこの先サタンと別れることになった時、最後に彼と食べる食事は何を選ぶだろう。
好物を聞かれた時に選び取る基準にした問いだった。
粥は学生時代にベルゼブフが風邪を引いた時に初めてサタンが作ってくれたものだった。当時は特別な関係でもなんでもないただの友人だったベルゼブフを、それでもたいそう心配して部屋にまで見舞いに来てくれた。共通の友人であるルシファーに白粥の作り方まで聞き、慣れないながら一生懸命作ってくれた。
いたって普通の白粥は、味もついていないし少し水気が多かったが、それでもベルゼブフが人生で食べたもので間違いなく一番美味しかった。
鍋いっぱいに作られたそれを何日か食べるはめになったが、ベルゼブフは食べ終わってしまうのが勿体無いと思うぐらいだった。もう彼は覚えていないかもしれないけど、それでも。
(やはり、あれが一番好きだな)
いつかその日が来ても果たして彼は自分の我儘を聞いてくれるだろうか。きっと聞いてくれる。優しい人だから。
「なに難しい顔してんだ、ベル。まずかったか?」
見上げると神妙な顔でサタンがこちらを窺っていた。
「いや、美味しいよもちろん。少し考え事をしていた」
「食ってる時に考え事すんなよ。飯がまずくなるだろ」
「違いない」
笑って答えながらも先ほどの疑問を問いかけてみたくなった。
「サタン、やはり私はオマエの作ったお粥が一番好きな食べ物らしい」
「その話まだ続いてたのか? まあそれぐらいいつでも作ってやるけどよ」
今度は分量間違えねーよ、と軽口を叩く彼を驚いた顔で見つめる。
「覚えていたのか」
「オマエこそ。俺が初めてベルの部屋に行って作った料理だろ。料理といえるかわからんが」
「覚えているとも。感動したんだ。あまりの美味しさに」
「大げさなやつだ」
サタンは笑って軽く言うがベルゼブフはいたって真面目に言っているし、サタンに関して彼はいつだって本気で本音だ。
「頼みがある。もしこの先、二人で最後に食事をする時はサタンのお粥が食べたい」
サタンは眉を顰めて訝しげな表情をした。無理な願いだったろうか。
「……色々とつっこみたいことはあるが、とりあえずオマエ、今からそんな先のこと気にしてんのかよ」
ハゲるぞと揶揄されるがベルゼブフは真剣な表情を崩さなかった。先のことと言うが、いつこの関係が終わるかもわからない。
「最後がいつになるかは誰にもわからないだろう。明日じゃないとは言えない」
ベルゼブフがサタンへの情をなくすことはあり得ないと言い切れるが、サタンがベルゼブフに愛想を尽かすことはないとは言い切れない。信用しているいないに関わらず、情とはそういうものだという割り切りがベルゼブフにはあった。
サタンは少し考えると改めてベルゼブフに向き合う。
「そういうふうに悲観的になるのがわかってんなら自分の身体を労れ。オマエが夢中になるほど大事なことなのはわかるが食事は摂れ。せめて寝ろ。帰ってこい。いや、帰れないなら今度から俺が大学へ行ってやる。そんで食事も作って食わせてやる。そうだな、それがいい。それで最後に食うものをもっとましな選択肢に塗り替えてやる」
まくし立てるような話し方はサタンには珍しくて驚いた。ベルゼブフは勢いに押され思わず頷いてしまう。
「う、うむ……? 今、そういう話だったか?」
「最後に食いたいものの話だろ」
「そうだ」
サタンは鼻で笑う。
「死ぬ前に俺の作ったものが食べたいとは熱烈なことを言ってくれる、と思えば明日をも知れないなどと言い出す。徹夜明けで精神まで弱りきってるのかもしれねぇが、馬鹿なことを言うぐらいなら明日も俺と美味い飯食いたいぐらい言え」
「え」
だいぶ曲解をされている、というより前提がズレている。ベルゼブフは死ぬ前の話はしていない。慌てて前提の共有からやり直すつもりで、さてどこから話し始めるかと口を開くのを躊躇っているとサタンからの追撃を受ける。
「最初に作ってもらったもんを大事に思う気持ちもわからなくはないが、これから何千何万回と食事を共にしていく中でオマエがもっと美味いと思うものを絶対見つけてやれるぞ俺は」
不貞腐れたような表情で告げるサタンの言葉は思ってもみなかったものだ。サタンの言い分はこれからも二人が共に居続けることを疑っていないと言っているも同然で。
彼からの愛情がなくなった時に、最初に戻るように、彼が自分のことを特別視していなかった頃に作られた食事で自分を無に還したい気持ちがないとはいえない。死ぬ前の話ではないと自分では定義したが、彼と離れて生きることになった時、それは実質ベルゼブフにとっては死に等しいと考え直す。
だけどサタンは少なくともこの先何万回と繰り返される日常を共にしてくれる未来を見ているらしい。
ベルゼブフはサタンほど迷いなく未来を信じられない。だからこそサタンに返す言葉も見つからずただまじまじと彼を見つめ返すしかできなくなっていた。けれど一つ確かなことがある。
「……なんか言うことはねーのかよ」
サタンは頬杖をついて挑むような視線を投げかけてくる。
「明日はまだ死なないはずだ」
今日は彼とともにいる。明日の自分もまたそうであるならその次もそうであると思える。
「俺の聞きたいことと微妙にズレてんだよな……」
「明後日は明日次第だ」
「そうかよ。明日も俺は早く上がれるからな。今度は違うもの食わせに行ってやるよ」
「そうして私の好きなものを上書きしていく?」
「ちょっと違う。上書きはしない。選択肢を増やして行くことにした。最後がきてもオマエが選び切れないぐらいに」
「そうされると私としては困る」
「ほう?」
「最後を迎える決心がつかないままになる恐れがある」
サタンはニヤリと笑って喜びを隠さない声で言う。
「決心なんか付けるな。俺と離れることをずっと恐れるオマエでいろよ」
望まれなくともベルゼブフが彼と離れることを恐れなくなる日など来ない。それを嬉しそうにするサタンの道理がわからないベルゼブフはただ苦笑して頷くしかなく、それを見て彼がますます喜色を浮かべるのをただ怪訝に見つめるばかりだった。
「サタンは最後に食べるなら何がいい?」
「何かはどうでもいいな。オマエがいて、俺の前で美味そうに食べる姿が見られればそれで」
2022.03.27
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