Sincerely yours.
崩れた石壁を横目に見やり、瓦礫と草で覆われた道なき道を行く。ヴィータ体にもようやく慣れてきて、ぬかるみや大きな石にも足を取られなくなってきたところだ。
受け継いだ基本体を模倣したヴィータ体は思いのほか違和感もなく馴染んだが、いざ動かしてみると感覚の違いから動作には修正と練習が必要なことがわかった。
動かし方を学ぶために散策をすることを思いついてから、ビルドバロックの遺跡を度々訪れるようになって幾ばくか。ヴィータ体に合わせて作られた道、建物、文化の残り香、それらを体感することでヴィータ体に慣れると同時にこの身体の特徴も捉えられるのではないか。それが私の求めるものに繋がるのではないかとささやかな期待をもって始めた習慣は、程なくして目下一番の楽しみごとになっていた。
ヴィータ体は感覚が鋭敏だ。あらゆる事象がメギド体を通して感じていたものとまるで違う衝撃をもたらす。二本の足で歩けば踏み締める地面の感触の違いが足裏から伝わる。手で物に触れれば質感も温度も細かな差異があることがわかる。耳に届く木々のざわめき、風の音、遠くで獣や鳥が鳴く声、たくさんの音が溢れている。大気にも水にも土にも匂いがある。鼻腔をくすぐる花の良い香りや、木の実の清々しい匂い。目についた実を試しにひとつ口にしてみれば、口内を刺激する感触があった。驚いて吐き出してしまったが、繊細過ぎる粘膜の感覚に面白みを覚えた。太陽の光は目を焼くほどに強烈で、月の光は夜目の利かないヴィータ体にとっての道標になる。
なるほど、ヴィータには、世界がこのように感じられるのか。そして同じように感じ、共有することができる他者がいる。
率直に、羨ましいという感情が胸のうちに去来する。
私の見たものを、聞いたことを、触れたものを、感じたことを、誰かに打ち明け、誰かが受け入れる。それは一人ではできないことだ。
戦争の中にはないもの。だからこそ得たいと願う。
歩みを止めかがみ込む。足元に咲いた小さく可憐な花にそっと触れてみると、白い花弁が揺れる。摘み取って持ち去りたいような、地に根ざしたまま揺れる様を見守りたいような、相反する思いが沸き起こる。
この花に対して抱く感情を私はうまく表現できないでいる。
まだ見ぬ誰かが、同じ花を見て、触れて、私と同じ思いを持つのか、その時それをどう表現するのか、想像してみる。似たようなことをこれまでにも何度か想像してみたがうまく思い描けた試しがない。
けれどきっと想像できない方が、その瞬間がきた時に何倍も感動があるのだろう。だからこそこの身体で体感する全てを楽しんでいる。誰かと共有できるその日を心待ちにしながら。
遺跡には稀に崩れずに残っている建造物もある。珍しいものなので見つけ次第、躊躇せず中を探索することにしている。仲間達にいい顔はされないだろうなという思いもありつつも、言わなければ誰に知られることもないのだから構わないだろうと足を踏み入れる。
珍しい建物の中にさらに珍しいものを見つけた。「書架」だ。聞いたことはあったが実物を見るのは初めてで、さらに言えばそこにある「本」も初めて見る物だった。
棚に一冊だけ残されたそれを手に取ってみる。本の表紙には見慣れぬ文字が書かれていた。おそらくヴァイガルドの言葉だ。もしかしたらヴァイガルドで書かれた本が持ち込まれた可能性もある。それが不可能ではないことを、私は私が受け継いだ秘密から推測していた。
表紙は擦れていて中の用紙も虫喰い跡が見られる。それでも書いてある文字は読める状態であった。これをここに置いた者はこの本を相当大事にしていたことがうかがえた。
メギドラルには夢見の者がヴィータの夢を介して得た情報から複製した本が存在するが、直感的にこれはそういうものとは違うだろうと判断した。
表紙をめくると見慣れないものがあった。「挿絵」だ。ヴィータが二人並んでいる光景を描いたものと見える。ますますこれが書かれたのはヴァイガルドであろうと確信を深める。複製の際に絵まで模写する労力をかけるとは思えなかったからだ。
私はその本の内容に興味を惹かれた。何が書かれているのだろう。読めるはずもないとわかっていてページをめくる。
最初のページから次々とめくっていくと、挿絵がいくつか描かれている。いずれも二人のヴィータが描かれていて、お互いを見つめ笑みを浮かべ、時に手を取り、時に身を寄せあい、時に一分の隙もなく抱き合ってる様子が描かれていた。
私はなぜか焦りを覚えた。そして同時に恐ろしさも感じていた。このまま読み続けるのは良くない気がした。なのにページを繰る手は止まらない。
読めなかったはずの文章の内容が自然と頭に入ってくる。
描かれていたヴィータ二人は特別な関係にあった。自然と惹かれ合い、拙い触れ合いを経て、互いを唯一無二と定めた。そして共に生きることを望んだ。そして、その先、
視界が黒く染まり始めた。いや違う、突如、本の虫喰い跡が侵食を広げはじめた。黒黒とした斑点が白いページを埋めていくと、今度はその侵食痕から炎が上がった。あっという間に本は燃え出し、逃げる間もなく私の身体も炎に包まれた。
熱さに驚く間もなく視界の端で私の身体が蝕まれていくのを捉えた。本と同じようにまるで虫喰い跡が広がるように喰われていく。痛みと熱さが同時に襲ってくる。
思考が奪われる。私が私として意識を保てなくなる。今や炎そのものと化した本を見やる。
脳裏をよぎる姿がある。名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。
視界が霞む。名前を呼ぼうとした誰か、それが誰なのかすら、もう――
「ベル」
目を開けると光に包まれていた。しばし眩しさに目を瞬かせる。視界がはっきりすると目の前には見慣れた、それでいて見飽きることなど決してない顔があった。
「サタン」
声に出してその名を呼ぶと安堵を覚える。自身の輪郭がはっきりし、世界との境界が定まる。今がいつで、どこにいるのか、ようやく認識した。ここはサタンと待ち合わせに使っているビルドバロックの遺跡で、今日は私の方が先に着いたからいつものようにサタンを待っている最中だった。
サタンが訝しげな顔で私を見ている。
「すまない、少しぼうっとしていたようだ。いま着いたのか?」
「……ああ。つい今しがたな。また寝てたのか?」
「いや? 単に熱中しすぎてサタンに意識がいかなかったんだ」
咄嗟に誤魔化すように口をついた言葉にサタンは納得がいかないようで、何かを言いたそうに、しかし言葉が浮かばない様子で眉を顰めてこちらを見ている。私はサタンを安心させるように笑顔を向けた。途端にばつが悪そうな顔を見せてそれ以上は何も言ってこなかった。
理由はわからないがサタンは私が笑って言ったことには大抵否定を返してこない。それに気付いてから時々ではあるが、彼を言い包めるときの手段として利用していることは、私がサタンに対して抱えた秘密の一つだ。
「熱中してたって、その本か。またヴァイガルドの文字を覚えてたのか?」
「え?」
サタンの言葉が一瞬理解できず硬直した。目線は私の手元に向けられている。目線を落とし、それを認識すると、途端に目眩がした。
本が開かれている。先ほどまで読んでいたのだ。私が。それなのに内容を思い出せない。いや、本当に今まで読んでいたのはこの本だったのか?
何か、忘れている。あるいは何か、記憶そのものを植え付けられたような。
感覚的にいつものように意識を失い夢を見ていたのだとわかった。ならば尚更サタンには言えない。たびたび意識を失うことは誤魔化しようがないところまできていたが、記憶が混濁していることは悟られたくない。
私が私であると確信できるうちに、伝えておきたいことがあるからだ。それを疑われるような情報を彼に与えたくはなかった。
しばし沈黙する私にサタンが再び怪訝な顔をする。
「文字なんて覚えてなんの役に立つんだよ」
「……ああ、ヴァイガルドの文字や文法を覚えることで文書記録の方法をもっと確立できる」
「記録ねぇ? そんなに熱心になるほどのことか? 知識は自分が覚えていればいい。もっと膨大な知識の蓄積は必要ならその役割を与えられたメギドが負うべきだ。重要なものは俺たちのように受け継ぐものがいる。「物」として残しておくことにさして意味があるとは思えねぇがな」
サタンの言うことは最もである。メギドは記憶力のいいものが多い。そうでなければ生き延びれないからだ。そして他者へその知識を継承することもほとんどの場合は重視しない。なぜならそれは己が生きるために培ってきた経験と同義だからだ。口伝できる類のものではなかった。
大罪同盟のメギドはその性質上、秘密すなわち情報を継承する重要性を理解しているが、これこそ記録に残せるものではない。
「……手紙を、用いることができないかと」
「手紙? アスモが言ってた連絡手段てやつか?」
「ああ。文字を紙に書いて他者へ渡すことで情報の伝達が過たず行えるのは有用だろう」
「それこそ伝言で事足りるだろうに。まぁ、たまに物覚えの悪い奴に伝言を託すととんでもねぇことになったりはするけどよ。そもそもそう頻繁に使う手段でもないしな。自分の口で伝えるのが手っ取り早い」
「いつまでもそうやってうまく回るとは限らない。何事も備えや挑戦は必要だ」
ふっ、と小さく息を吐き出す音が耳を掠める。サタンは口元に手を当て緩む口角を隠しているようだったが横から全て見えている。真面目に話しているのに笑われるのは心外だった。
「屁理屈に聞こえるが、オマエの場合そうやって先回りして考えることが本当に正しいことが多いしな」
「褒められているのか?」
「褒めてるぜ。肯定してる。素直に受け取れよ」
「そうか。ひとまずそうしておこう」
実のところ、語った理由は後付に近かったので決まりが悪かった。より正確に言うなら、優先度が下がった理由の方をサタンに告げていた。
この本を拾った時は確かに、ヴァイガルドの文字と文化を取り入れることによる有益性を検討しようとしていた。サタンがヴィータ体を取るより遥か前のことだ。その頃は覚えることが、知らないことを知ることが、楽しかっただけだった。
記憶と意識にズレが生じていると感じたのはいつ頃だったか。
時折知らないはずの知識が増えている。記憶していない行動の時間が僅かにある。
開いていた本を閉じ、表紙を撫でる。例えばこの本も、確かに以前に遺跡で拾ったものだ。だが拾った当時の状況が判然としない。そして私が持つのはこれ一冊だけにも関わらず、いつの間にかヴァイガルドに関する知識が自然と刷り込まれている。
これに書かれた内容はヴァイガルドの植物に関する知識だった。メギドラルに自生するものと似通った植物も多いため理解に易しかった。その生態をサタンと共有したりもした。
書かれた生態をメギドラルのものと照らし合わせる程度の理解だった。それがいつの間にかまるで見てきたかのように風景の中に自然と思い描けるようになった。メギドラルとは決定的に違う風景を。
サタンは元より、誰にもこんな話はできない。自分の中にあるはずのない知識やイメージが刷り込まれるなど。
そうして思い至ったのが夢だった。夢を通して誰かが私に何かをしかけている。まず候補に上がるのが夢見の者だ。だがルシファーを介して知り合った元夢見の者、プルトンからはそのような痕跡はないとの判断が下された。一旦はそれで納得したものの、時間が経つほどに酷くなる一方だ。解決の糸口は掴めぬまま日々は過ぎていった。
「ベル」
再び思考に嵌りかけていたところをサタンの声が呼び戻す。先より小さく発せられた声はどことなく不満げに聞こえる。
「どうした」
尋ねたがじっとこちらを見つめるばかりで口を開かない。すっ、と閉じた本に置いた手に彼の手が重ねられた。顔を僅かに寄せられて瞳の色がより鮮明になる。
その目に宿る熱と揺らぎの先に覚えのある感情が呼び覚まされる。何も言わずに目を閉じて顔を傾けると、すかさずサタンの手が頬に触れ反対の手で後頭部を固定される。そのまま喰らうかのように口付けられた。
唇で唇を食まれ、開けろと言わんばかりに舌先で表面を突かれる。毎度性急なその動きに同じくらい焦がれる自分がいる一方、もう少し穏やかに彼の唇の感触を楽しみたいと思う自分もいて、割り切れない二つの感情の狭間でいつも混乱に飲まれていくばかりだった。頑なに口を閉じたままでいるとサタンが顔を顰めてムッとする気配がした。この触れ合いにおける主導権を握られてばかりいる私が珍しく手綱を握れたようで少し愉快になる。
焦れたサタンが前歯を下唇に立てて抗議の意思を示した。かわいらしい攻撃に思わずふふっ、と笑いを漏らす。すかさず舌を差し込まれ遠慮なく口内をまさぐられた。
「んぅ…、あっ、……ふぁ」
「はぁっ、ベル…っ…」
舌同士を擦り合わせて、吸われて、離される。上顎をくすぐるように舌で撫でられて、その感触に背筋が慄く。
薄目を開けると射抜くようにこちらを見るサタンと目が合ってたまらなくなる。
いつの間にか膝上の本は落ちていた。サタンの背に手を回して強く抱きしめる。サタンの手が首筋にかかる髪をするすると梳き撫でる感触にぞくぞくした。反対の手で腰を強く引き掴まれて隙間がないほど身体が密着する。
「ふぅ、ん……」
「! べるっ」
サタンの口に自ら舌を差し込み、鋭い犬歯を撫でるとビクリと震える。咎めるような声を無視してさらに奥へ捩じ込む。サタンは負けじと私の舌に柔らかく歯を立てた。傷つけられないとわかりきって受けるその鋭利な感触が気持ちいい。
サタンとの触れ合いは互いのことだけを感じて、互いのことだけを考えていられる時間だ。
他の何も、メギドのことも、世界のことも、戦争のことも、自分の本来の目的さえ、置き去りにしてしまうような、私の中にサタンだけしか存在しない、そういう時間だった。
唇を離して見つめ合う。離れる瞬間はいつもお互い名残惜しい。どれだけ長く触れ合ってもこれだけは解消されない。
不意にサタンが、あっ、と声を上げた。
「今日はベルからしてもらうつもりだったのに!」
「自分からしておいて文句か?」
本当に悔しげな表情をするのでつい笑ってしまい、頬を摘まれる。
「オマエが目を瞑って待ってるのにしない選択肢はない」
「いい心がけだ」
「なんで上からなんだよ」
こつん、と額と額をぶつけられ唇を突き出した表情で見上げられる。拗ねている表情だ、とサタンと過ごすようになって知った様々な種類の表情のひとつを、かわいいな、と思った。この言葉もサタンに教えられたことのひとつだ。
「今からでも遅くはないだろう?」
サタンの両頬を包み込んで優しく問いかけると、途端に頬を上気させ期待に目を輝かせた。
「目を瞑ってくれないとできないよ、サタン」
そういうとサタンは素直に目を閉じた。いつもは油断なく光る瞳が瞼に隠され、金色のまつ毛で縁取られた目の形はひどく美しいのに、大人しく待つ顔はとてもかわいかった。胸の奥の方で何かを掴まれるような感触がある。サタンと過ごしているとたびたび起こる現象だ。心のうちが騒ぐが不快ではなく、むしろ不思議と心地よく楽しいとすら思う。
「おい、まだかよ」
「すまない、見惚れていた」
「はぁ? 今かよ。別の時にしろ」
「情緒のないやつだ」
「オマエにだけは言われたくねぇ」
ふふふ、と軽く笑って憎まれ口を叩いた唇に優しく触れた。サタンが口を開けて舌を触れさせようとしてくるのを無視して一旦離れる。不満を訴えるように目を開けたサタンを微笑みで制して、もう一度、今度はちゅっと音を立てて触れる。そのまま何度も触れては離れ、角度を変えて触れ、サタンの唇の形を確かめるようにちゅっちゅと口付けた。
「…………ベル」
「なんだ」
呼びかけの意味には気付いていたがわかってあえて尋ねた。
「俺の方からしたいようにしていいか?」
「仕方ないな」
許可を出せば途端にまた唇ごとサタンに食べられてしまった。
ひとしきり触れ合うと満足して身体を離した。落とした本を拾い、サタンの隣に座り直す。名残惜しくはあるがこればかりしてもいられないのだ。今度こそしっかり読もうと本を開き直す。サタンは私の肩に頭を乗せて手元を覗き込んでくる。文句を言われるかと思ったが予想は外れ、大人しく見守ってくれるようだ。
「サタンにも文字を覚えてほしいのだが」
「手紙を書くためにか? それもわざわざヴァイガルドの言葉でってのもなぁ。メギドラルの言葉じゃダメなのかよ」
聞かれるだろうと思っていたがいざ質問を受けるとこの身に小さく緊張が走る。単なる雑談の一つだからサタンとしてはそう重要なことを聞いているつもりはないのだろう。
「メギドラルの言葉だけだと足りないんだ」
「? 足りないって何がだ?」
「それを探すためにヴァイガルドの言葉を覚えている」
「ますます意味がわかんねぇ……」
想定していたにも関わらず、うまく答えられない自分がもどかしい。本当のことを言うのも躊躇われ、さりとて全くの嘘を吐く気にもなれない。我々は互いに秘密を抱えた同士だが、できればサタンには誠実でいたい。ヴィータ体のことや「特別な共感性」について話したからという理由だけではない。サタンだからこそ、真実で接していたい。
本当に手紙を書きたい相手はサタンなのだから。
時々不安になる。今こうして思考して、行動している自分は、果たして本当にここに存在しているのか。
サタンといっしょにいると恐ろしい不安に囚われることがなくなる。
私は、ベルゼブフは、ここにいるのだと。サタンと共に過ごすことが、この時間が幸福であると感じる私がここにいる。
この時間が永遠に続くことを願っている。それが不可能であることも、知っている。記憶よりも、夢よりも、感情が、心が、移ろいやすいことを知っている。
いま私とサタンの間にある言葉にできないこの感情が、永劫失われずいられるよう願いながら、そんなことはあり得ないと思っている。
だから私はせめて遺しておきたい。そのために知りたいのだ。私のサタンへのこの「想い」を言葉にできるように。
「サタン」
「なんだよベル」
呼べば返る応えが嬉しい。肩に乗る重みに心が安らぐ。触れたところから温もりが混じり合うことに安堵する。
「……サタン」
「ベル? どうかしたのか?」
言葉を重ねるよりもその名を呼んで、呼ばれることの方がきっとずっと核心に近い。
「……なんでもない。やっぱり今日は本を読むのはやめよう。いっしょに散策をしないか」
サタンが顔を上げて探るように私を見つめる。いま自分がどんな顔をしているのかわからない。
サタンは片眉をひょいと上げ不思議そうな表情をした後に、「オマエ気まぐれに磨きがかかってるな」と愉快そうに言った。思考の経緯はわからないが納得してくれたらしい。
「まぁ、いいぜ。オマエがしたいことをしたらいい」
自然な動作で私の手を取って立ち上がった。
「ベルがいっしょならなんだって楽しいだろうからな」
サタンが軽やかに紡ぐ言葉は、いつもなぜか泣きたくなるほどの歓喜をもたらす。私と同じ想いだと教えてくれる。
サタンに手を引かれるままについていくと開けた場所が見えてきた。遺跡周辺の草原を散策することにしたようだ。
頬を撫でる風の温もりに、季節の移ろいを感じる。変化に乏しいこの世界にも確実に季節ごとの変化があるのだ。ヴィータ体でならつぶさに感じられるそれが、いつしか大きな変化に繋がるのではと思いを馳せる。
足元を見れば花が咲いていた。小さく白い、どこにでもあるような花。風に吹かれて揺れる様を何気なく目に留めて、ふと聞いてみたかったことをサタンに尋ねる。
「サタン、これをどう思う?」
「これ、って花のことか?」
「そう」
要領を得ない問いに戸惑う空気を感じたが、特に訂正も補足もせずに目で答えを促す。サタンはぱちぱちとふた瞬きした後に口を開いた。
「花だな」
「他には?」
「うーん……」
しばし悩む素振りを見せた後、しゃがみ込むと花に触れて迷いなく摘みとる。摘みとったそれをこちらに差し出した。
「サタン?」
受け取りながら意図を知りたくて名を呼ぶと、目を細め微笑みながらうんうんと一頻り頷いている。
「それ持ってろ」
「え?」
サタンはそう言うが早いか、周辺に同じように咲いた花々を次々と摘み取り始めた。程なくしてその手には大きさや形こそ様々だが、私の手元にあるのと同じく白い花々が握られていた。
「ん」
先ほどと同じように私に差し出されたそれを、落とさないように今度は両手で受け取った。
「どうしたんだ急に」
「急なのはベルの方だろ」
「否定はしない」
「どう思うかって聞かれても『花だな』以外に答えようがないだろ」
「まぁ、そうだろうな」
野に咲くそれに思うことなどない、普通そうだ。思うことなどないから躊躇いなく摘み取るのだろうか。
「でもベルが持つと違うな」
「え?」
「オマエが持ってるとなんつーか、ただの花なんだが、違って見える」
サタンの言いたいことがわからなくて首を傾げた。彼は澄んだ瞳でただじっと私を見ている。
短い沈黙を破るかのように一陣の風が吹く。乱れた髪を直そうとして手が塞がっていたのを失念していた。らしくもなくあたふたしていると、見かねたのかサタンが優しい手つきで髪を梳いて直してくれた。その間も視線は揺らがず私を捉えていてなぜか無性に恥ずかしかった。
「ありがとう」
「おう。……さっきの続きだが、ベルは白い花が似合う」
「似合う?」
花が似合うとは不思議なことを言うものだ。しかしそれを言った当人も納得がいかないようで軽く首を捻る。
「いや、違うな。花が似合うんじゃなくて、いや似合うは似合うんだが、花だけって意味じゃなく……」
はっきりとものを言うサタンにしては珍しく口籠もり、ブツブツとしきりに言葉を繰り返している。私には馴染みのある感覚だが、彼がそうなっているのを見るのは物珍しく新鮮な気持ちで様子を眺めてしまう。
思考の末に新しい発見をできそうな時、それが言葉にできそうでできなくて、もどかしくなりながら言語化を試みる瞬間というのは側から見れば滑稽でもあるのかもしれない。けれど私は知っている。私たちの中にある言葉でうまく言い表せないそれを、伝えたいと思う心うちを。
サタンならどう伝えてくれるのだろうか。
思わず手の中の花を強く握ってしまい、慌てて緩める。潰れていないか確認してみると幸いすべて無事なようだった。良かった。安堵のままに花に顔を寄せると、土と草の匂いに混じり、微かに花の芳香が漂ってくる。小さな花弁が折り重なったものやひだ状の花弁をもつもの、私が摘み取るのを躊躇ったそれらをいま手にして自然と笑みを浮かべてしまうのはなぜなのか。
顔を上げて正面のサタンに視線を戻すと、はっとするように目を見開いた。
「どうした?」
「……綺麗だ」
「? 花のことか?」
サタンはゆるく首を振って苦笑した。
「ベルが」
「……意味がよくわからない。花のことを言っていたんじゃないのか」
「意味っつってもなぁ。オマエと違って説明は苦手なんだ。ただ思ったことを言っただけだ」
サタンは一生懸命考えているようだった。彼は説明は苦手というが、実際は私よりずっと気持ちを言葉にするのに長けている。心に浮かんだものをそのまま目の前に差し出してくれる。だから私はサタンの言葉が好きだった。彼が紡ぐ彼自身の言葉を聞きたかった。
「……オマエはこうして野に咲く花だの草だの、獣だの鳥だの、風景だ気候だをいちいちああだこうだ説明するだろ」
「そうだな。よくそれでオマエに面倒がられているのは知っている」
「面倒なわけじゃねぇよ。ちゃんと聴いてるし聴きたいと思ってる。後回しにすることもあって悪いとは思うけどよ」
「別にかまわないし気にしていない。お互い様だ。私もオマエのことを考えずに言いたいことを言ってしまっている」
「ベルはそれでいいんだよ」
心からそう思っている顔だった。目から、声から、彼の温かさが感じられて、どうしたらそんな風に触れてもいない場所から温度を感じさせることができるのかいつも不思議で仕方なかった。
「ベルが花には咲く季節があることを教えてくれた。それまで俺はただそこに花がある、としか思ってなかった。むしろ意識を向けることすらなかったかもしれない」
サタンが私の手にある花のひとつに触れる。花弁をそっと撫でる手つきはひどく柔らかい。こんな繊細な触れ方ができるほどにヴィータ体に馴染んだのだと思うと同時に、ともに過ごした日々の中で互いに触れ合ったことも思い出し、知らず鼓動が高鳴った。サタンは私の様子には気付かずに続ける。
「そこにあるだけだったこれが、オマエとともに景色にあるのを見ると、俺には途端にそれが何か大切なものに思えてくる」
「私と……」
「たぶん俺は、これから白い花を見ればベルを思い出す。オマエがその花に微笑みかける光景を目に浮かべる」
「そうすると俺にはこの世界が前よりいいものに思える」
真っ直ぐ私を見つめるサタンの瞳の色は驚くほどに透明で澄んでいる。いま心に浮かんだ言葉を偽りなくそのままに伝えてくれているとわかる。
彼にもらった花に目を落とす。かつて野に咲く花に対して抱いた感情を言い表せなかった。今ようやくそれに名前をつけられた。
野に咲く花に美しさを感じていた。メギドラルの厳しい環境にあってもなお、凛とした佇まいで咲く花に。再び芽吹いてほしいと願う気持ちと、摘み取って手元に置いておきたいと思う気持ち。
愛おしいと。そう、呼ぶのだろう。
サタンだけが私に愛おしさを教えてくれる。それを与えてくれる。
そういう相手を「特別」と呼ぶのだと、私は知った。
そろそろだ、とその言葉はごく自然に意識にのぼった。休戦季が近い。それは次の統一議会の開催の予感でもあった。
とはいえアスモデウスが不在のなか統一議会を開催するわけにはいかない。同盟内ではみなそのように認識しているため、此度の休戦季の宣言は先延ばしになるだろう。
暗雲の垂れ込める空を見上げる。待ち人はいまだ影も形も見えない。このところ会える時間が減っていることに不安が募る。
大気に水の匂いが混じり始めた。じっとりと湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。まもなく降り始めるだろう雨を避けるため、建物の中でサタンを待つことにする。天候の変化など多くのメギドにとってなんら影響を与えないが、ヴィータ体にとっては死活問題になる。環境に依存しすぎる脆弱な身体と取るか、仔細な変化を感じ取れる興味深い身体ととるか。この先、多くのメギドがヴィータ体を取るようになった時に現れる意識の差異を、どのように均すか考える思考実験が最近の趣味だった。
そう、今は趣味にすぎない。多くのメギドがヴィータ体を取るだろうというのも私の夢想でしかない。
「特別な共感性」を得たいという私の好奇心は確かな手応えと満足な結果を得られそうだと感じている。しかしそれとは別に多くのメギドがヴィータ体を取るべきだと思うのも本音だった。
それはこの世界の存続のためにも必要なことだと思うからだ。
そしてそれに対するいちばんの壁が誰あろうアスモデウスだということも承知している。盟主の意向に逆らうほどに強靭な論理が構築できているわけではない。いずれにせよ今は時期尚早なのだ。ゆっくりと浸透させ、有益性を示すことでしか理解は得られない。
あるいは――
窓に叩きつけるような雨音が響く。気付けば石造りの廊下に佇んでいた。いつの間に雨が降り始めたのだろうか。ぼんやりしていると廊下の奥から物音が聞こえた。待ち焦がれた存在がようやく到着したらしい。逸る心とは裏腹にゆっくりと歩き出す。
奥は真っ暗だった。灯りを持ってくるのを忘れたな、と思いながらも歩を進めると向かう先には白く浮かびあがる人影があった。
人影は女であることがわかった。
背丈は高く、長い髪は全体に白いが毛先にゆくにつれ赤くなり、手には長い剣を持っている。
反対の手に球のような何かをぶら下げている。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。知らず冷たい汗が首筋を伝う。
歩みを速めるが一向に近付けない。そのうち人影はこちらを振り向いた。
私はその者の姿を知らない、見たことがないからだ。けれど知っている。それが誰かを。
――アスモデウス
アスモデウスが手にしている球のようなものが人の首であることを認識した。
次いで傍に横たわる黒衣の男の死体を認識した瞬間。
怒り、恐怖、哀しみ、絶望、憎悪。
かつてないほどの感情の激流に呑まれた。
――殺す
純然たる殺意。戦意でも敵意でもなくただひたすらに目の前の相手に対する憎しみからくる殺意に支配される。
激情のままに身体を動かそうとするも意志に反して手足の動きは酷く鈍かった。まるで身体が私の命令をきかないようだ。
アスモデウスは無表情のままこちらへ近付いてきた。その動作は無感情で、無機質なものにすら思えた。
私の目の前に立ち冷たい目で一瞥した後、ゆっくりと剣を振りかぶり――振り下ろした。
初めに目に入ったのは稲光だった。雷鳴の轟きが聞こえ、聴覚が返ってくる。雨粒が強かに肌を打つ感覚、濡れた服の重み。ぬかるむ地面の不安定さ。五感が正しく働き始める。
また、意識を失っていた。夢も見た、はずだ。相変わらず内容は思い出せない。だが今までにないほど酷い気分だった。思い出せないのに、恐怖と不快感が込み上げる。
現状の把握が必要だと思い、周囲の様子を伺った。雨を避けようと建物へ向かっていたはずが、反対方向へと歩いてきたらしい。眠っている間に自身の意思ではない行動をすることなどあり得るのか。最初に自分の状態に気付いた時にプルトンに尋ねたことがある。答えはある、とのことだった。
ヴィータの中には本人の意識がないのにふらふら出歩く症状を持つものがいるらしい。彼らの世界でも病にあたるものらしいから、私のこれもヴィータ体を取ることで起こる障害の一つだろうかと少し悩んだ。その頃すでにサタンにヴィータ体を取るようになってもらっていたため、彼にこのような害が及ぶのは望ましくなかったからだ。
ただ同じようにヴィータ体を取るサタンには一向に同じような症状は出なかった。睡眠すら私ほどには必要ないようだった。同じ型を模倣してもやはりメギドそれぞれの個性が反映されるのだと思い至り、検証としては有用な見識を得られたことに喜んだ。
しかしここに至ってようやく夢自体への恐怖よりも、現実に私が知らない間に何か行動を起こすかもしれないことに恐怖を覚えた。
そもそも今は現実なのか? 思考し判断し行動する私は果たして主観として正しいのか? 私は存在しているのか?
答えのない問いは恐怖を増幅させた。なぜなら私には私が知らない時間が存在するからだ。ならばその記憶を有するのは、私の中にこの主観が及ばない私がいるのか?
沈思している間に雨足はずいぶん弱まっていた。闇で覆われていたかのような空も灰色がかり、遠くでは雲間から陽光が差し込んでいる。
ばしゃり、と後ろから足音がひとつ近づいてきた。
「ベル? なんでこんなところに」
その声に名前を呼ばれるだけでどうしてこんなに安心するのだろう。冷え切って動かなくなった手足に血が通うのがわかる。振り返ってサタン、とその名を呼ぶ。
「なに、雨に打たれてみるというのはどんな心地かと思って試してみていた」
できるだけ何でもないように答える。大丈夫だ、ちゃんと笑えているはずだ。サタンは眉を顰め探るような目つきでこちらを見ている。やがて諦めたようなため息とともに一つ忠告を寄越した。
「……好奇心はほどほどにしておけ。この身体でさっきみたいな雨の中にいるのはよくないんだろ」
「わかっている。もうしない。身体もとても冷えた」
そう言って、サタンに近づいてその身体を抱きしめた。彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに意を察して私を抱きしめ返してくれた。力強くて温かいその腕に抱き寄せられ、隙間もないほどに身体を密着させてくる。冷えた身体を服越しに感じたのだろう、背や肩や腕を優しく撫でてくれる動きに、身体だけでなく心も解れていくようだった。
――ああ、もっとサタンと触れ合いたい。彼を身のうちに受け入れたい。彼とひとつになりたい。
初めて明確に自分からサタンを欲した瞬間だった。
何も言わずにサタンに口付けた。自ら舌を差し出し彼の口腔内を弄る。性感を刺激するところを執拗に責め立てる。サタンは初めこそ性急な私の動きに驚いていたが、すぐさまその目には情欲の色が乗る。獣のように息を荒げながら二人して黙ったまま建物へと向かった。
雨は上がり、夕暮れの太陽が顔を覗かせていた。
日も沈み、辺りがすっかり暗くなり、星々が無数に輝き出す頃、ようやく私たちは互いを別の個体に戻した。
サタンとの性行為はもう数えきれないほどになるが、回数を重ねるごとに時間の感覚がなくなるほど溺れるのを感じる。
けれどそれは決して不安や不快感を覚えるものではなかった。むしろ反対で、サタンに触れられ、名を呼ばれ、身体を繋ぎ合わせてる時、私は私であることを実感できる。サタンを求め、サタンに求められているのは他の誰でもない、このベルゼブフであると。サタンが私の世界に、魂に触れている。私の中にはもうすでにサタンなしでは成り立たない世界が広がっている。
そばにいて見つめ合い、言葉を交わし、触れ合って、抱き合う。いずれの瞬間にも言葉にできない温かな安心感と、泣きたくなるほどの切なさという相反する感情を覚える。
日に日に離れていることが耐え難いほどにつらくなる。一人でいることは不安を覚える。焦燥感とともに自分の中に制御できない感情が生まれ、それに突き動かされそうになる。
この感情の出処こそが私の求めた「特別な共感性」だというのなら、サタンの中にも同じような感情が存在するのだろうか。互いに尋ねたことはなく、また尋ねられる言葉を我々は持たない。サタンに分かったような顔で説明していた私こそが知ったかぶりだったのだろう。
ただいっしょいにいればそれだけで全てうまくいくような、満足できる生を生きられる、この世界を素晴らしいものと思えるこれが――
ぱちりと火の爆ぜる音がした。濡れた衣服を乾かすためにサタンが火を起こしたのだ。焚火の煌々とした炎に照らされるサタンの横顔に話しかける。
「このところ忙しそうだな」
「ああ。休戦季が近いからな。戦争を売ったり買ったりだ」
「だが統一議会はまだ先だろう」
アスモデウス不在では。口に出さずとも心得ているサタンは苦笑いで答える。
「他の連中はアスモの不在を知らねぇからな。不在であることを悟られるのも面倒だ。休戦季が近いという空気に乗っていつもより派手にやってるだけだ」
「それは……わかるが」
「不満そうだな?」
「わかっているなら指摘するより前にすることがあるんじゃないか」
私の機嫌を取るとか。視線で抗議すればサタンは目を細め面白いものを見たという表情をした。
「俺に言わせればベルの方がおかしい。オマエの戦争嫌いは知ってるし、公言してるのも見てるが、それでよく侮られないもんだ。戦争売られないのか?」
馬鹿げた質問に鼻を鳴らして答えた。サタン本人もわかって聞いているから笑みを絶やさない。
「馬鹿馬鹿しい。売られるに決まってるだろう。自分からは売っていかないだけで」
それに、
「オマエたちほど甘くないだけだ」
サタンは心外そうな顔だった。
「俺がいつ戦争に甘さを持ち込んだ?」
質問には剣呑さが感じられたがそれで怯むようなことはない。
「私は戦争が嫌いだ。だがやるなら敵を殲滅するまでやる。二度と私に戦争など仕掛けて来れないよう徹底的に」
サタンは虚を衝かれた顔をした。
「オマエは、時にアスモデウスもだが、殲滅よりも敵のメギドが有用かを見定める時があるだろう」
メギドラル社会にとって有益に役立てそうなら殺さず生かす。我々の存在はこの世界の秩序の要であり、その維持が役目だ。戦争の最中は混沌にありながらも実質理性的に判断できるからこそ同盟を受け継ぐ資格がある。
だが私は一度敵対したものに容赦することは決してない。平穏を乱すもの。己を害そうとするもの。思想に反発するもの。
私の大切にするものを攻撃する意思。
一切の情けもなく、全てを滅する。そうしてようやく平穏を取り戻せると信じている。
「世界にとって有益になることより、自分の意志を優先した結果が戦争嫌いの戦争回避を実現しているらしい」
さして面白くもない話だが、思わず笑いが漏れる。自嘲だった。
「……俺はオマエの戦争のやり方に口を挟む気はねぇ。肯定もしないがな」
だろうな、と頷きで答える。
「だがまぁ、そうだな、統一議会はまだまだ先になるだろうし」
サタンの声色が変わったのに気付く。二人っきりでいる時によく聞く、甘やかで優しい声音だった。
立ち上がりそっとこちら近づいて傍に寄り添う。体温を分け合うような距離でサタンは囁いた。
「ベルが望むだけそばにいてやるよ」
「……偉そうだな」
ニヤリと犬歯を覗かせた笑顔で挑発してくる言葉に弱く返すことしかできなかった。
サタンは言葉を違えず私が望むだけそばにいてくれるようになった。あるいは彼自身もそうしたいと望んでいるのだと思うのは決して私の自惚ではないだろう。確かめずともよかった。ただそばにいれば何よりの証明になったのだから。
***
アスモデウスが異世界から帰って程なくして、サタンとルシファーだけが会合に呼ばれた。人員を限定して会合を行うこともさして珍しくはない。元より気まぐれに集まったり集まらなかったりもする間柄だ。だからそれは殊更秘密裏に行われたわけではなかった。
他の誰も気にしてはいないその会合が、なぜか私には気がかりであった。胸騒ぎまではいかない。予感とも呼べない小さなひっかかり。
私の懸念はよそに、戻ってきたサタンはすんなり会合の内容を話した。
「手紙はハルマから出したものではなかった?」
「らしい。他の誰がそんなことをするのかはわからねぇが」
「アスモデウスはなんと?」
「目的は自分をメギドラルから不在にさせることだろうとさ」
心臓が嫌な音を立てる。それはつまり、
「あの統一議会は」
「ああ、『敵』はアスモを出し抜いて統一議会を開催することで同盟の弱体化を狙ったとあいつは考えてる」
「……」
サタンは特に疑問を持たなかったようだが腑に落ちない点はある。明確に敵を想定していることもだがそれ以上に……。
「サタン、ヴィータ体については何も聞かれなかったか?」
「あ? まぁ理由と誰から教わったかくらいは聞かれたけどよ」
「話したのか?」
「その辺は暈した」
「そうか」
違和感に合点がいった。アスモデウスは端から「敵」を外部のものだと思っていない。つまり同盟内のもの、もっと狭めるなら私とサタンは一番に疑われていると考えていい。いやに落ち着いて考えている自分が薄ら寒かった。
アスモデウス不在で開催された統一議会、その事実は記憶として残っているのに、そこでの出来事はもはや霞がかり思い出せなくなってきている。誰が開催したかもわからない議会で、ひとつ変化の芽を植え付けられたことだけを朧げに記憶している。
それが原因というわけではないだろうが、異世界から帰ってきたアスモデウスに対して、異様に警戒心を抱くようになっていた。このまま放っておけば良くないことが起こりそうな、不安とも呼べぬ微かな疑心。
サタンは沈黙する私を気まずそうに見ている。
「まずかったか」
「何がだ?」
「ヴィータ体であいつらに会ったのは」
普段は凛々しく釣り上がった眉が下がり、不安そうな顔で尋ねるサタンを見て思わず微笑んだ。
「まずいことはないだろう。私が勧めたんだ。むしろ積極的に広めようとしてくれるのは嬉しい」
「そういう意図じゃなかったが……」
言い淀む様子に興味をそそられた。
「ではなぜ?」
「ベルが…」
「私が?」
「議会の後に話してた時、ベルがこのままフォトンの枯渇が進むようならやはりヴィータ体は普及するべきだって言い出して」
「言ったな」
サタンとした会話はよく覚えている。だから議題にそのことが上がったことも記憶している。その他の記憶が曖昧なのは、伝える必要のないことだ。
「だから、オマエ、他にも大勢のメギドがヴィータ体を取るようになったら、いるかもしれねぇだろ」
「いるって何がだ」
サタンは途端に言いづらそうに口をモゴモゴとさせている。目線は宙を泳ぎ、心なしか頬を染め、照れているように見えた。照れている?
「ベルと、特別な仲になるようなメギドが現れるかもしれねぇ、って思ったんだよ」
「サタンがいるのに?」
あまりに想定外の言葉だったので率直に返すしかなかった。サタンはその返事にパッと顔を明るくし視線を私に戻した。
「そうだ。俺がいるだろ。ベルには俺がいる、サタン以外がベルゼブフに特別な共感性を持つことはないって」
「つまり牽制目的だったのか……」
「悪いかよ」
あまりに想像の外だったのでしばし呆けてしまったが、サタンの不服そうな顔を見てふふっと笑いが漏れた。
「いや、悪くない。悪くないよ、サタン。むしろ――」
オマエも私のことを特別だと思ってくれているんだな。そう初めて言葉で確認し合うことがなんだか照れ臭くて、また訳もなく笑ってしまう。
「当たり前だろ。そうじゃなきゃあんなことしねーよ」
ベルもそうだろ。そう問われて笑顔で頷く。心から安堵したように息を吐いて、サタンが満面の笑みで答えた。
サタンだけが私の特別だ。ずっと、これまでも、これからも。
良く晴れた日だった。
相変わらず遺跡でサタンの到着を待ちながら本を見るともなしに眺めていた。ヴァイガルドの文字も覚え、知識も僅かずつだが増えていた。
――手紙を、書こうか。
今なら伝えられる気がした。サタンにずっと言いたかったことの形がついこの間掴めた気がした。だから今、この瞬間に、残しておきたかった。
いつも外で座って話す時に使っている長椅子の横、植物が茂り隠すように覆われた石壁に爪や小石を使ってなんとか文字を彫る。小石でつけた無造作な傷に爪で軌跡を整える。存外難しい作業に日も暮れるまで没頭した。
月のない夜は視界が制限される。その日はそれで終えた。サタンはやって来なかった。
次の日も同じように待つ間に石に文字を刻んだ。気付けば日暮れだった。作業はあまり進まなかった。サタンは来ない。
次の日も、次の日も、サタンは来なかった。私は眠る時間が増え続け、今がいつなのか夢の中なのか現実なのかさえ曖昧になってきていた。
起きている時間にかろうじて意識できることは、サタンに伝えなければ、という一心だった。
やがて最後の文字を彫り終えて、それに名を刻もうとした。
――刹那、とてつもない悪寒に襲われた。
背後を見る。何の気配もない。嫌な予感がしていてもたってもいられなくなり、立ち上がってその場を後にする。
アスモデウスが戻ってきてからこちら、ほとんど同盟の会合に顔を出さなくなっていた。世情は伝え聞く手段があったが同盟内のことはそうもいかない。サタンも私に倣って会合には顔を出さずにいたが、戦争はそうはいかない。
戦争でサタンが負けることなどあり得ない。彼を負かせる相手などこの世界にそう何人もいない。わかっている。ただ――
記憶の片隅に何かが引っかかっている、いつか見た夢のような、幻のような光景が脳裏に過ぎる。
佇む女、傍に横たわる黒衣の死体、振り向いた女の顔。
浮かんだ光景を振り払うように頭を振り、久しく取っていなかったメギド体に変じると、一路仲間たちの元へ向かった。
乾燥した強い風に煽られて舞う髪を鬱陶しく思いながら荒野を進む。こんな場所でも五百年前は今より随分マシだったように思う。風はもっと穏やかで、草花も生えていた。季節が変われば見られる花も違っていた。
今や見渡す限り乾いた土と岩だらけだった。もちろん季節の変化など感じられるはずもない。
それらをほとんど無感情に通り過ぎ、目的の場所へ急ぐともなく向かう。メギドラルでは今やこんな光景珍しくもなんともないからだ。
そして俺はといえば、焦ったり急いだりしてもどうにもできないことがある、と悟るほどには長い月日を過ごしてしまっていた。それでも耐えて待つことが最善と納得するまでに数百年かかっている。諦めの悪いところは俺の長所でもあり短所でもあると冷静に分析してくれるものはいなかった。
目的地は荒野の中にあるには幾分異質な様相だった。石畳が敷かれた地面は無数の瓦礫で埋もれている。所々に崩れかけてかろうじて残る石壁の残骸が見える。かつてビルドバロックの遺物があった場所だ。
――俺とベルが幾度となく逢瀬を重ねた場所。
過ぎた年月と変わった世界に思いを馳せることすらやめて久しい。自責と後悔に呑まれ、激憤と諦念に苛まれ、それでも生き続けるからには歩みを止められない。どうしたって諦め切る気持ちにはなれなかった。その葛藤ももう何百年も前になる。
あの頃二人でよく語らった場所には瓦礫が堆く積まれている。俺が手ずから積んだその瓦礫の下は一部が空洞になっている。そこにとあるものを保管するためにこうしてわざわざ手間をかけていわば防壁になるように石を積み上げた。
空洞に入っているものもまた、俺以外にとっては瓦礫に違いない。
これを見つけたのは、ベルが正気を失って間もない頃だった。正気と狂気を繰り返しながら摩耗していく精神とともについに身体が限界を迎えたのか、ベルは起き上がることすらできなくなった。何度目かの絶望の瞬間。生きているからには諦めがつかないが、俺にできることがいくつあるのかと希望さえなくしかけるあの瞬間は実に耐え難い。
自身への慰めのつもりだったのか、労いか、激励か、ベルが奪われてから足を運ぶこともなかったこの遺跡へ赴いた。
その頃はまだかろうじて枯れかけの草花は見かけられた。それは本当に偶然、目にしたものだった。
いつだったかにベルに渡した白い花。なんとなく摘み取ったそれを渡すと不思議そうな顔で俺を見て、そして笑った。ほんの瞬きの瞬間に消えるような笑み。けれどそれが見られるなら理由は十分だった。ベルを笑顔にさせるものは、俺にとってひとつ残らず素晴らしいものとなる。
忘れるはずもないそれが咲いていたその場所こそ、ベルが俺への言葉を残した場所だった。
その時すべて理解した。ベルはかつて手紙を書きたいとヴァイガルドの文字を覚えようとしていた。最初から俺への言葉を残すために言葉を覚えていた。
その時の衝撃は今も言葉にできない。
あれからも永い時が過ぎたが迷うことはやめた。出来ることをやるだけ。ないなら探すだけだ。
時折こうして遺跡へやって来てはこの石板を眺める。俺は決して思い出の中のベルだけを想いたいわけでない。現実に存在して、俺と未来を歩むベルを想う。
ベルの言葉が、その未来に迷いなく進むための縁になる。
――必ずベルを取り戻す。なぜなら、
オマエは俺のものだろう、ベル。俺も、オマエのものだ。
愛してる。
オマエが教えてくれた言葉が、俺の道標になるから。
『私の心の中にはいつもサタンがいる。
サタン、この心はオマエのものだ。
愛してる。永遠に』
2022.10.15
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