きらきら
「ベル! 出かけるぞ」
部屋の扉を破らん勢いでベルゼブフの私室に飛び込んできたサタンのその一言により、夏の盛りのヴァイガルド小旅行が決定した。
色々あって、サタンとベルゼブフはともにソロモン王の召喚を受けることになった。メギドラルもヴァイガルドも問題はまだまだ山積しているが、サタンとベルゼブフがメギドラルを不在にし、ヴァイガルドでのんびり過ごす少々の時間は許される程度の落ち着きを保っていた。それをいいことに、数百年の別離を経て再会したサタンとベルゼブフ、メギドラルにおける稀有な仲、別名バカップルたちはヴァイガルドの視察という名目で堂々と二人っきりで過ごす場所を求めていた。
此度もサタンが丁度いい旅行先を見つけてきたらしい。見るからに楽しみな様子を隠さずにベルゼブフに満面の笑みで先ほどの提案を告げてきた。
「……今から?」
「今からだ」
反対にベルゼブフは気の進まない様子で生返事をする。それもそのはず、彼はヴァイガルドの夏という季節が苦手であった。暑さで動きが緩慢になり、思考も鈍り、ほとんど代謝がない純正メギドすら汗をかく、その滴る感覚の不快なこと。生命の活気づく様は結構なことだが、意味もなく騒ぎ出す輩がヴィータにしろ、メギドにしろ、獣にしろ虫にしろ多過ぎる。平穏を求めるベルゼブフとしては回避したい季節の一つだと感じていた。
「今日の陽射しはここ最近で一番だと思わないか、サタン」
「そうだな。一番いい天気だ。出かけるのに申し分ない」
「気温も高い」
「気持ちいい空気だな」
「……オマエ、わざと言っているだろう」
「せっかくヴァイガルドまで来てて、ベルがいて、アジトに引きこもらせてるなんて勿体無い真似を俺が許すと思うか?」
「ソロモン王には今日は用事も幻獣討伐もないからゆっくり過ごしていいと許可はもらっている」
「ダメだ。俺が許さねぇ」
頑是ないバナルマのような言い分だ。発生したてでももっと聞き分けがいいメギドもいるだろう。数百年生きている大メギド、しかもメギドラル社会の頂点といっていい地位を持つ彼は普段はもっと理性的に振る舞える。しかしベルゼブフに対しては道理のない言い分でも通ると思っている節がある。要は甘えているのだ。そしてベルゼブフは甘えられていると承知している。
「……どこへ出かけるつもりなんだ。それ次第だ」
渋々サタンの提案に耳を傾ける。ここまで譲歩した段階で今日はサタンの行きたいところへ行くことが決定している。
サタンは満足げに頷きながらベルゼブフの手を取った。
「ひまわりを見に行くぞ」
その花の群生地が近くにあるという村にはポータルを利用してもおよそ数時間かかった。太陽は頂点を越え、今が一番暑い時間である。出かける時間を間違えている。もっと早くか、逆にもっと遅くに出る方が幾分か楽であっただろう。サタンはベルゼブフの苦言を意に介さず、「今が一番いい時間帯なんだよ」と全く意味不明なことを言った。
サタンは暑さに強いらしい。そして活力溢れるこの季節が性に合うらしい。彼らしいと微笑ましく思う気持ちと、それに付き合う煩わしさを天秤にかけてしまう程度にはベルゼブフにとってこの季節の外出は苦行だった。
村につくとサタンは手慣れた様子で商店へ立ち寄った。買い物という行為もだいぶ慣れて板についている。食糧でも買うのかと思えば、どうも衣服を売る店のようだった。
サタンもベルゼブフも服装はヴァイガルドのものを着用している。季節に合わせた服は普段着ているものと比べれば圧倒的に簡素であったが、この気候には合っていてこれはこれでいいものだとベルゼブフは思っていた。サタンの方は普段より布地の面積が増えているのが少し面白かった。さておき、互いにおかしなところもないと思うがサタンはなぜこの店に入ったのか。
「何か入り用のものか」
「ああ。ベル、これ被っとけ」
ぽすり、と被せられたのは帽子だった。藁で編まれたもので、視界に入るほどにツバが広い。これを買うために?
「これで陽射しが防げるだろ。目に入る光が減ると随分涼しく感じるらしいぜ」
「陽射しのある時間帯に出かけない選択肢はなかったのか?」
「それじゃ意味ねぇんだよ」
軽く笑まれ先ほどと同じように全く要領を得ない答えが返ってきた。よほどひまわりとやらが見たかったのか。腑に落ちない点はあるものの、礼を言えばサタンは目を細め「おう」と応えた。
村を後にし、一路ひまわり畑を目指す。道中は陽射しを遮るものがない開けた道が続く。それでも帽子のおかげか歩いていても随分と楽に感じた。暑さが和らぐと現金なもので、周囲の景色を楽しむ余裕も出る。
道は土手になっていて低いところを流れる小川が見える。太陽の光を浴びて水面がきらきらと煌めいている。水中には光を反射して動く何かがいる。小魚だろうか。ここからでは確かめられない。川の周囲を飛ぶ鳥は魚を狙っているのだろうか。鳥が羽ばたくと草むらの虫が飛び立った。頬をぬるい風が撫でる。草が擦れる音に耳をすませる。上を向けばどこまでも抜けるような青空と、大きく積もったような白い雲が見える。
すべてが鮮やかな季節だ。
「何か面白いものでもあったか」
横を並んで歩いていたサタンが問いかけてくる。
「面白いかはわからないが、色々な生き物がいるなと思ったんだ」
川の方を指差すとああ、と彼は頷く。
「オマエああいうの観察するの好きだよな」
「そうだろうか」
指摘されるほどじっと見ていたつもりはなかったので気恥ずかしかった。
「そこは昔から変わらねぇよ。珍しい植物や生き物がいたら、観察したり手に取って触れたりしてたろ」
「そんなこともあったか」
とぼけたような返事になったが実際、サタンほど昔のことを覚えていないので気まずい思いを飲み込む。サタンはそれすら承知だというようにベルゼブフを慈しむ目で見ながら続ける。
「いつかメギドラルにいない生き物を見たいと言ってたこともあった。俺が黒い犬の話をしたときにも。見たことのないものを見たいってな」
「……そうか」
遠き日を懐かしんでいるサタンの横顔は、息をのむほど美しく、なぜかそれを見るとベルゼブフは胸が苦しくなった。その他愛のない話をずっと覚えていてくれたことにも、自分の中にはそれらの日々の記憶がほとんど残っていないことにも、息が詰まるような心地になった。サタンを見ていられなくて思わず顔を伏せる。
歩調が乱れサタンから一歩遅れそうになったところをするりと、すかさず手を握られる。
「オマエに見せたいものがたくさんある」
「……見せたいもの?」
「これから行く場所もそうだ。……オマエは覚えてないかもしれないが、ひまわりのことを教えてくれたのはベルなんだぜ」
苦笑しながらもこちらを見やる目は温かい。握られた手がほどかれ今度は指と指を絡ませるように握り直された。責めてるわけではないと、無言で伝わる仕草だった。
「私が?」
「太陽を追って成長する植物があるらしいと説明してくれたな。あの頃オマエ、どこぞからヴァイガルドの図鑑を拾ってきて熱心に読んでたんだよ。その中に書かれてた植物に興味を示しててな。ヴァイガルドにも随分とアグレッシブな生き物がいたもんだと」
おそらく勘違いしていたであろう当時を思い出してサタンがくつくつと笑った。ヴァイガルドを訪れるようになった今であれば考えられないが、当時の自分たちは日の出から日没まで太陽の軌跡を追いかける植物を想像したのだろう。
「でもまだ本物は見たことないだろ。アレの世界でも」
「ないな」
「見ようぜ俺と。見たことないもの、知らないものをさ」
「サタン、私は……」
嬉しいはずなのに、昔の私の願ったことを叶えようとするサタンにもどかしさも覚えた。
「『今の』私はすっかり興味がなくなっている、とは思わないのか」
意地の悪い聞き方をしてしまった。思わずぎゅっとサタンの手を握りしめる。サタンの中で「私」を区別する気持ちなど毛頭ないのを承知で、それでも彼を少し傷つけたかった。しかし、
「興味はあるだろ」
あっさりとそう言い切る顔は自信満々で、余裕があり悔しいほどによく似合う。
「どうしてそう思う」
「笑ったから」
「?」
「『ひまわり見にいこうぜ』って言ったら笑っただろ、ベル。目を輝かせて俺を見た」
まったくの無自覚だった。サタンがあまりに嬉しそうで、だからまぁ、いいかと思っただけで。……本当に?
話にだけ聞いたことのある黄色くて大きな花。太陽に向かって咲きながら、まるで太陽そのもののようなひまわり。
その中に立つサタンの姿を想像して、胸が高鳴った。眩しい陽射しの中にいる、太陽そのもののような男の姿を。
見たいと願わなかったと言えば嘘になる。
「……花を見たいと思ったわけではない」
「だから言っただろ。『俺と』見ようぜ。見たことないものも知らないものも。俺はこの先、ベルと見る世界が楽しみで仕方ないんだぜ」
オマエも同じだろう。ベル。
力強く響く声に応えるように、もう一度その手をしっかりと握った。
*
一面に広がる絢爛な花畑に佇むベルゼブフを見て、サタンは目を細めた。
麦わら帽子のおかげで陽射しは遮られているが、時折眩しそうにしている顔は、あるいは穏やかに笑んでいるようにも見えた。サタンとベルゼブフの目線に近いところに咲く大きな花を興味深そうに見たり触れたりする。そうして、何かを発見した時にこちらを振り返るその顔。サタンを見とめ、嬉しそうに綻ぶその笑顔が。
サタンは何よりも見たかった。
一番日の高い時間を選んだのもそのほうが花がより輝くからだ。白く瞬い陽射しを浴びて世界すべてが輝いてるようなこの瞬間。
その中で一番きらきらと煌めくその笑顔を、思い出の中だけではなく、これからも一番近くで見られる幸福を感じ、サタンも極上の笑顔で応えた。
2022.10.15
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