秋茜の墓標

「一彩、見て。トンボだ」

太陽はその日差しを弱め、落ちる影が次第に長くなってきた頃、里には一足早く秋の気配が漂っていた。
山間を縫うように集落を築く隠れ里には平地が少ない。数少ない開けた土地は耕作地になっており、何もない原っぱはごく僅かな面積だった。そんな原っぱで勉強や稽古の合間に一彩と虫を捕ったり、草花を摘んだりして穏やかに過ごすこの時間が燐音には何よりの至福だった。
二人の頭上には秋を彩るトンボたちが無数に飛び交っていた。
「本当だ。いっぱいいるね」
「トンボの捕まえ方知ってるか?」
「ううん」
「見てて」
丈の高い草に一匹のトンボが止まっていた。燐音はそっと近付くとトンボの目の前に一本、指を差し出す。ゆっくりと指をトンボの目の前でくるくる回しながら、そっと反対の手をトンボの背後に回す。素早い動きで羽根を掴みあっという間にトンボを捕まえてみせた。
「すごいね!どうやったの?」
「トンボが目の前の指に気を取られてる隙に素早く捕まえるんだ。狩りの基本だな。注意を逸らして別方向から仕留める」
薄い翅を壊さないように優しく持って一彩に見せる。高くなった秋の空よりも澄んだ青い目を輝かせる弟は何よりも可愛い。
「目が大きいね」
「複眼ていうらしい。大きく見える目は実はたくさんの目で、ものを見分けるんだって」
「すごいね」
「な。昆虫って変わった生き物だよな」
「ううん。兄さんが」
「俺?」
何かした覚えはないが。不思議に思って一彩を見やると
「いろんなことを知ってるね。僕は知らないことばかりだから、兄さんにいつも聞いてばかりいるけど、兄さんはいつも答えてくれるよね」
すごいね。眩い笑顔で繰り返す一彩に照れ笑いで答えた。一彩にたくさんのことを教えたい。聞かれたことにはなんだって答えて、尊敬する素晴らしい兄だと思われたい。そんな気持ちで書物を読んだり日夜勉強してることを一彩には内緒にしている。かわいい小さな弟の前でいつだってかっこいいお兄ちゃんでいたい。燐音のささやかな願いだ。
「一彩、ここ持ってみて。優しくな。そっとだぞそっと」
人指し指と親指でつまんだ翅を同じように一彩にも持たせる。折れやすく傷つきやすい翅を一彩が摘んだのを確認して離した。
「王国の仲間にできるかな?」
無邪気に口にした言葉の残酷さを知る由もないのだろう。春から一彩と作り始めた虫の王国は季節が移るごとに様々な昆虫で溢れていた。
「……うん。できるよ。この子にするか?」
「僕も捕まえてみたい!」
「よし、一緒に捕まえよう」
虫捕りは一彩の好きな遊びのひとつだ。燐音も好きだった。いつからだろう、捕らわれ、箱庭に囲われ、飼い殺しにされる虫たちに己を重ねて見るようになったのは。

本当なら里を飛び出し山を越えて飛べるはずの虫たちの、鱗粉を落とし、羽化したての柔らかい身を傷つけ、翅の先を手折る。そうして死なないよう、けれど決してそこから飛び立つことはないよう自由を封じ、小さな箱庭を虫の王国として築き上げた。
もっと幼い頃は一彩と一緒に虫捕りを楽しんでいたはずだ。いつからか燐音は、草で編んだ籠に捕らえられ、冬を越せずに死んでいく虫たちに自分を重ねるようになっていた。箱庭は籠よりは上等な代物だったが、所詮は家の庭に誂えたもので山々を縦横に飛ぶ自由とは比べるべくもなかった。
燐音は唾棄すべきこの地の習慣と同じやり方で王国を築く己が忌々しかった。
長じるにつれて里のあり方に疑問を抱くようになった。絶対的な君主を立て、掟を守り、粛々と生活を送る。里以外の世界を遮断し、生まれた時から決まっている役目に従事し、やがてこの場所で眠りにつく。飼われている、と感じる。誰とはなしに。このままでは良くない、とも。けれど燐音もまた飛び立つことはできない。君主として生まれた責任がある。里を守る義務がある。何より。

この世の誰より愛する弟がいる。

一彩がいるかぎり燐音はここを離れられない。一彩の人生が燐音に捧げられると決まった瞬間、燐音のすべては一彩のためにあると悟った。
一彩が喜ぶのなら、一彩が笑ってくれるのなら、一彩が幸せであるのなら。
(そのために俺は俺の人生を使う。それだけが俺の生まれた意味だ)

「兄さん!捕まえたよ!」
思考に囚われていた燐音に一彩の伸びやかな喜びの声が届いた。
「秋茜だ」
「あきあかね?」
「赤トンボだな。体が赤いからそう呼ばれる」
「茜は植物の名前だね」
「そうだな。よく覚えてたな」
「兄さんがこの間教えてくれたよ。薬にも染料にもなるって」
「一彩は覚えがいいな。教えがいがある」
「ふふ」
得意そうに笑うその顔が可愛くて愛しくてたまらない。言われたことはきちんと覚えてるし飲み込みも早い。こんなに優れた資質を持つのに、ただ君主の弟に生まれたからという理由で一生を補佐役として過ごすことが決定づけられている。哀れだと、思ってしまうのも燐音の傲慢だろうか。
「ずっと掴んでると弱ってしまうな。一度籠に入れるか」
「うん」
持っていた籠に秋茜を放す。
「翅の先を少し折っておこうか」
「え?」
「王国に入れるなら飛べないようにしとかなくちゃな。大丈夫、それだけで死ぬことはないよ。草の間を飛び移るぐらいはできる」
もう二度と広大な空を飛び回ることはできないけれど。
一彩は先ほどと違って少し躊躇する様子を見せた。この秋茜では気に入らなかったのだろうか。
「どうした?」
「えっと、そうか、翅、折っちゃうんだね」
「うん。そうしないと、」
「このまま王国に入れられないのかな?」
無茶を言う、と思うが一彩のわがままは珍しいし、その望みはできるだけ叶えてやりたい。でも燐音にもできないことはある。
「そのまま入れても逃げちゃうぞ?」
「……そうだね。ごめんなさい。わがままを言って」
「こんなの、わがままのうちに入らないよ」
優しく微笑みながら一彩の頭を撫でる燐音を見上げながら、一彩はなぜだか胸がしめつけられるように痛むのを不思議に思った。

***

その年の夏は異常な暑さだった。

例年より長かった梅雨が明けると、嘘のように快晴が続いた。隠れ里は比較的暑さが和らぐがそれでもこの年はいつもより暑かった。
そんな真夏のある日に燐音は里を飛び出した。
一彩はその時のことをあまり覚えていない。燐音が何がしかの演説をし、里のものは唖然とし、または猛抗議をした。一彩はその渦中にいながら、何一つ現実感がないまま気づけば兄は消えていた。

昔、まだ一彩も燐音も幼かった頃。二人でたくさんの虫を集めて虫の王国を作った。蟻、だんご虫、芋虫、飛蝗、蟋蟀、蝶々やカブトムシ、トンボも捕まえた。季節によって虫たちの顔ぶれは変わり、数を増やしていた。
ふと、あの王国をもう一度作ってみようと思った。自分一人の手で。
燐音がいなくなった次の春、蝶々を捕まえた。黄色い小さな蝶々。箱庭に放つとしばらくは花々の間をふよふよと舞っていた。一彩がそれを眺めていると家人から呼び出しの声がかかった。兄がいなくなってからは、里の人々の中でそれまで存在してるのかいないのか曖昧だった自身がいきなり輪郭を持ったようだった。こうして声がかかることが増えた。ことに年が明けてからは特に。

なんのことはない挨拶をするために呼び止められた僅かな時間で黄色い蝶々は姿を消していた。花々の間にはいない。蜜を吸っている様子もない。ひらひらとどこかへ飛び立っていたのだ。

夏はカブトムシや蝉の羽化を見守ったが、やはりいずれいなくなっていた。

秋にはトンボをたくさん捕まえた。トンボを捕るのは一番得意になっていた。そのまま放すとやはりあっという間に飛び立っていってしまう。オニヤンマ、ギンヤンマ、シオカラトンボ、アキアカネも、もちろんいた。
一彩は知っている。トンボが飛び立たないようにするための方法を。
あの日、兄に見せた秋茜。赤と橙で彩られる体が美しくて、これがいいなと思った。兄の髪に似ていて綺麗だったから。
その兄に似ているトンボの翅を、燐音に手折らせた。一彩が折らせた。
一彩が、秋茜の自由を奪った。

ふと、思う。兄の自由を奪っていたのは誰でもない自分ではなかったかと。
自惚れでなく里で一番燐音に近いところにいた。誰より可愛がられていたとも思う。その感情の由来まではわからなくとも。一彩もまた、兄のことを慕わしく思っていた。お互いに誰より大事な人だと想い合っていた。けれどそんな自分が枷になっていたのかもしれない。
秋茜の翅を折る兄を見て悲しくなった。
それはまた、燐音の羽をも折らせていたのだと、自分がそうさせていたのかと思い、胸が苦しくなった。

いつか燐音が言っていた、自分が死ねば一彩が次の君主だ、という言葉。あれは。

(こういうことだったの?兄さん)

自由を奪われ箱庭で生きることを余儀なくされた秋茜は果たして冬の訪れとともにその命を散らした。燐音と一彩は虫たちのお墓を作った。墓標は箱庭の草花や木や石を使った。秋茜には紅い木の枝を。

燐音はどこまでも飛んでいける。その背にはずっと羽があったのだから。一彩が折らなければもっと早く飛び立っていたに違いない。

一彩には羽も翅もない。ここから飛び立つことはできない。一彩の居場所は兄の消えた玉座。最初からそこには誰もいなかったように佇んでいる。
あの秋茜に立てた墓標が、一彩自身と重なった。

2021.02.23

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